慢性外傷性脳症

2022/02/14

慢性外傷性脳症

慢性外傷性脳症はスポーツなどしている人から有名になり、徐々に一般の方の認知も広がってきている障害です。

ボクシングのパンチドランカーは昔から有名です。
脳への衝撃や振動が脳震盪を起こすことはある種の激しい接触系スポーツなどの経験者では目にしたことがあるでしょう。
これは今回話題にする慢性外傷性脳症に対比させると急性外傷性脳症ということができるかもしれません。

外傷と言うと出血や裂創のような怪我や傷を思い浮かべるかもしれませんがこの場合の外傷は外相と言っても脳みそが見える様な傷や怪我を負うのではなくあくまで衝撃や振動を指します。
軽い擦り傷やあざはできても脳が露出されるような激しい外傷を指すわけではありません。

また脳震盪にしてもそうですが臨床検査では異常所見がありません。
頭部外傷の際には頭蓋内出血や脳挫傷、びまん性軸索損傷など外傷による脳の異常所見が見られますが、脳震盪にしても慢性外傷性脳症にしても検査で異常は見られません。

ですから慢性外傷性脳症というものがあるというのは近年広く認知されるようになってきましたが以前はパーキンソン病症状などの運動障害や健忘などの記憶や認知機能障害がでるパンチドランカーのような重度の病態しか認知されてきませんでした。

しかし近年、脳にスポーツなどで衝撃や衝動を繰り返し受けた場合には抑うつなどの気分症状、易怒性や衝動性,興奮性や攻撃性、爆発性などの衝動制御障害、体調不良や性格変化などの精神や行動の障害を伴うことが明らかになってきました。

アメリカンフットボールのケース

慢性外傷性脳症が注目されるようになった転機があります。
アメリカンフットボールのスーパースター、O.J.シンプソンが引退後、妻を射殺し警察とカーチェースになったことでした。

もともとボクサーのパンチドランカーのパーキンソン病症状や認知症などは知られていましたがそれ以外の精神や行動の障害については認識されていなかった、あるいは注目されてきませんでした。

それ以外にも元アメリカンフットボール選手の自殺などのニュース、大小の抑うつや心身の不良感、衝動性制御や素行、秩序破壊的な性格や行動の変化が報告されるようになりました。

パーキンソニズムや認知症は神経内科の扱う神経変性障害ですが、性格や行動の障害は精神科や心療内科で扱う領域になります。
分かりやすく言うと頭に繰り返しの振動や衝撃を受けた方に精神疾患が発症することが発見されたということです。
これは精神医学では見逃されてきたと言えることでした。

同じように最近まで見逃されてきた例には広汎性発達障害/自閉スペクトラム症と注意欠陥多動性障害などがあります。
これはDSM-Ⅲ以降の精神科疾患分類の原型になってきたクルト・シュナイダーの臨床精神病理学でも見逃されて記載されていないのが1つの理由になります。

慢性外傷性脳症の脳の変化

普通の病院の画像検査では異常所見が見られませんが、死後脳の研究で神経原線維変化という病理変化が確認されています。
これはアルツハイマー型認知症で有名な変化です。

アルツハイマー病では老人斑と神経原線維変化という細胞や組織の変化が起こります。
アルツハイマー病はタンパク質が凝集を起こして体内に異物を作り出すアミロイドーシスと言う病態で起こると考えられています。
老人斑はアミロイドβというタンパク質が脳の細胞間質で凝集することによって組織切片で見られるものです。
このアミロイドβの凝集により凝集したアミロイドβに接し囲まれた神経細胞内にリン酸されたタウというタンパク質が凝集します。
この凝集したタウや神経細胞が変性、壊死した結果見える病理像が神経原線維変化です。
このタウの凝集や神経細胞の変性、壊死はアルツハイマー型認知症以外でも広く見られます。
アルツハイマー型認知症の場合はアミロイドーシスがこの真剣原線維変化は広範かつ早期に起こすことにより起こるというのが現在の考え方です。

このタウ蛋白の凝集で起こる疾患は総称してタウオパシーと言われ、進行性核上麻痺や皮質基底核変性症などの神経変性疾患でも見られます。
また認知症でもβアミロイドーシスの凝集によるアミロイドーシスが起こらないのに神経原線維変化のみが起こる認知症がかなりの割合になることが分かっています。
更には認知症でなくても認知症でない老化でも神経原線維変化は起こり、進行します。

ということは神経原線維変化はアルツハイマー型認知症をはじめとするタウオパシーのような神経閉栓疾患に関係なく誰にでも起こり得るものとも考えられます。
そう考えるとただどのような理由であろうと神経原線維変化がおきる部位や範囲や信仰の速さが早期の脳疾患の発症につながると言えます。

慢性外傷性脳症では市中病院で行われる一般的な画像検査では異常所見は見られませんが、死後脳解剖などでは神経原線維変化が見られることが知られています。
ここから繰り返す脳の振動や衝撃が神経原線維変化を起こしやすいことが推測されます。
つまり脳の神経が普通より早く死んでいくのです。

柔らかい脳

脳は柔らかい器官です。

昔はサルの脳みそを生で食べさせてくれる焼き肉屋がありました。
新型コロナウイルスの例でも分かると思いますが、変わった動物を食べるとその動物の病原体が人間に流行することがあります。
おそらく狂牛病やクロイツフェルト・ヤコブ病などのプリオン病やその他の感染症が公衆衛生の問題になってからは現在はそういう店はないと思いますが、国によっては現在も食べている地域があるかもしれません。
ちなみにプリオン病もアミロイドーシスが原因で起こります。

脳がなぜ柔らかいかと言うと細胞間質に繊維や基質がないからです。
脳の中で線維があるのは脳に張り巡らされた血管の周りだけです。

組織と言うのは普通、組織学でいうと細胞と細胞間質で作られており細胞間質は線維と基質と細胞外液からなります。
線維はコラーゲン、基質はヒアルロン酸やコンドロイチン硫酸を思い浮かべてもらえばいいでしょう。

骨のような固い組織はカルシウム化合物のようなミネラルを細胞間質に基質として沈着させます。
これは骨芽細胞や破骨細胞によって作られたり壊されたりを繰り返しています。
骨の線維はやはりコラーゲンで(エラスチンなどもあるかもしれません)、コラーゲンは人体は色々なタイプがありますが人体でもっとも多いたんぱく質です。
ちなみに自然界で最も多いたんぱく質はRUBISCOというもので光合成に関係するたんぱく質です。

細胞間質には普通このように細胞間質には普通線維と基質と細胞外液でできているはずですが線維と基質がなく細胞同士がタンパク質などを介して直接接している場合もあります。
皮膚の上皮細胞や、消化管の上皮細胞、血管上皮細胞、そして神経細胞とグリア細胞などです。

脳は血管周囲以外は神経細胞やグリア細胞が直接接してできています。
血管は内皮細胞の他筋細胞や基質、コラーゲンからできているので脳の中では比較的固い組織ですがそれ以外の神経細胞やグリア細胞は細胞膜が直接接しているようなイメージになりますので柔らかいのです。

ちなみに細胞は脂質二重膜と言ういう細胞膜に覆われていますが細胞膜を構成するのはたくさんの共有結合していない分子ですので細胞膜を構成する大量の分子は細胞膜の中をランダムに動き回っている他、細胞内外がひっくり返る相転移現象もみられるなど個体と言うよりはシャボン玉のような液体と思ってもらえばいいかもしれません。
細胞内骨格という細胞の支持分子はありますが、それでも線維や基質の殻に囲まれている組織と比べれば格段に柔らかい訳です。
細胞同士は接着分子と言うタンパク質でつながっていますがそれも点と点でつながっているようなものです。

つまり脳は柔らかいのですが、これは変形しやすいことを意味します。

脳は柔らかくて変形しやすい器官ですが変形して欲しくない器官でもあります。
腫瘍や頭蓋内圧などの脳への圧迫などの力がかかると容易に変形します。
脳は神経回路であることで機能しているので回路が壊されたり変形すると機能失調を起こします。
特に延髄などの脳幹は生きるために必要な機能を司っているため変形すると重症化や死に至ります。

普通脳の神経細胞は脳脊髄液に浸されている、または浮いており、くも膜で支持され、細胞同士は接着分子で結合し、シナプスやグリア細胞で固定され、細胞内は細胞骨格によって形を一定に保っています。
これらは脳を変形しないように保っていますが、細胞の周囲をコラーゲンの線維や吸水性、弾性のある基質、あるいは石灰成分などの鉱質で殻のように守られた細胞に比べると衝撃に対する影響が異なると思われます。
頭部や胸部以外を内骨格で維持している人間と、外殻で維持しているカブトムシのような昆虫をイメージしてもらうといいかもしれません。

脳は神経回路網であることが大切な位相が大切な器官です。
衝撃でもし回路網が破壊されれば何らかの影響が出て不思議ではありません。
神経細胞が大量に死んでしまえばアルツハイパー型のようになるでしょう。

脳細胞が死ななくても回路の接合部であるシナプスがおかしくなってしまえば統合失調症のような疾患になることもあるでしょう。
慢性外傷性脳症では神経原線維変化があることから神経細胞が繰り返しの衝撃で死んでいることが分かります。

慢性外傷性脳症の治療

精神障害や行動障害に絞って精神科や心療内科の治療を概観します。
治療法は分かっていません。
そういう場合には薬物療法でも精神療法でも対症療法的しかありません。

薬物療法なら調べたり試行錯誤しつつ薬剤調整を行います。
精神療法では疾患教育が大切かもしれません。

治療以前に慢性外傷性脳症とまず診断がつかなければいけませんが往々にして予診や初診時の診察では過去のスポーツ歴や繰り返す脳の衝撃などは分からないことが多いです。

自閉スペクトラム症や注意欠陥多動性障害などが良い例ですが、過去に確立していない新しい疾患概念が登場した場合などには見逃しが起こることがあります。
過去にボクシングをやっていたかどうかなどいかにも見逃しがちです。
私も今思うとあれは慢性外傷性脳症ではないかと思われる症例を思い出します。

精神科では過去のトラウマなど患者さんが話しにくいこと、話したくないことなども多く往々にして数年後に初めて聞いたような患者さんのエピソードなどで病因や病理のなぞが解けることがあります。

診療時間が限られている中で抑うつや易怒性で来院した患者さんに「過去に何かスポーツをやっていましたか?」や「過去にボクシングやアメフトをやっていましたか?」などの質問は医者側からもしない場合が殆どでしょうし、患者さん側から自発的に話すとも言えないでしょう。

その様な意味では他の疾患でもそうですが、患者の方との関係を密に構築し、良好な医者患者関係を築いて患者の方から色々な情報が入るようにするのが大切ですし、患者さんにとっても相性がいい医者を見つけるのが大切でしょう。