やさしい仏教入門 空と中観の理解へ

2020/12/31

空の説明を行う。
まず実を対立概念として絵ブドウの実と皮、空き家と人の住んでいる家、中身があって見た目がダメな男と中身がないが見た目がよい男を例に出して空と実を説明してみようと思います。

はじめに

理解と納得は違うものです。理解していても納得出来ないことがあるし、納得していても理解も出来ないこともあります。同じく説明もそうです。理解していても納得していても説明できないこともあるし、説明できても理解も納得も出来ていないことがあります。

仏教は普通に考えられる宗教と全く異なるところがあります。仏教は分かるものです。といっても仏教にも色々な宗派があります。各宗派の教義には宗派独特のものがあり、その中には分かるのではなく信じるしかないようなものも確かにあります。しかし仏教の、特に日本の仏教の源流である大乗仏教の核心の教義である空や中観の考えは思考で理解するものです。ですから欧米では仏教を宗教ではなく哲学と見なす人が多いようです。

仏教はお釈迦様により開かれ、お釈迦様の死後に根本分裂、枝葉分裂と分派を繰り返し、現在の仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つの系統からなっています。大乗仏教は北伝仏教ともいい、インドから北回りに広がり、現在ではブータン、チベット、日本などにある仏教です。上座部仏教は南伝仏教とも言いスリランカ、ビルマ、タイなどにある仏教です。

大乗仏教の創始者はナーガールジュナ(龍樹)といい、大乗仏教の第一祖で龍樹菩薩とも呼ばれます。大乗仏教が確立したのはナーガールジュナが空論と中観論という理論を作ったからです。この空と中観の概念がお釈迦様が悟ったことというのが大乗仏教の立場です。

大切なのは大乗仏教では無条件の信仰も超自然的なオカルト的精神状態も必要としていません。空と中観を思考によって理解し納得することが仏教の核心です。

何かが分かるとは理解すること、その理解に基づいて納得することです。そのためにはその何かがきちんと説明されていないといけません。お釈迦様の時代の人類の発展度ではお釈迦様が悟った内容は説明が難しかったのだと思います。お釈迦様の教えはお経などの仏教の文書で残されていますがお釈迦様が悟ったことが空や中観であるかどうかもはっきりしません。おそらく当時の知的水準ではお釈迦様の空と中観の説明も曖昧だったのかもしれません。またお釈迦様の教えを残した人々も正しく教えを理解していたかどうかも怪しいと思います。

ナーガールジュナが仏教の核心として再発見した空と中観は例えば中国仏教の天台智顗の三諦論(中、空、戯(仮)の3つの諦(真理)からなる論)という形でまとめられます。仏教の核心を簡略に伝えると言われる般若心経の「色即是空 空即是色」という言葉は有名でしょう。日本仏教で日蓮は(日蓮が空と中を正しく理解していたかは実際は疑問がある)「三諦論と法華経に帰れ」と主張しました。

仏教の中核は「空」と「中観」であって仏教の必要条件と言えます。極論、独断でいえばお釈迦様にせよその後の宗派にせよ、「空」と「中観」以外の要素は文化や伝統として親しみ継承していけば十分でしょう。

過去に説明が困難であった概念も現代の文明や知識の水準では豊富な説明方法があります。

「空」と「中観」を理解する事は仏教を理解することや、単なる知的好奇心を満たす以上の意味があります。空や中観は現代の基礎をなす現代哲学や現代数学の考えそのものだからです。現代哲学の構造主義やポスト構造主義や現代数学の形式主義や公理主義、無定義語の概念は仏教の空と中観と同じものです。仏教、あるいはあらゆる仏教宗派の最小公約数である空と中観の概念を理解すれば現代哲学や現代数学の数学基礎論が理解できます。仏教を理解するということは実用的な事なのです。

日本はせっかく世界で2つしかない大乗仏教国の1つなのですから是非「空」と「中観」を理解して仏教を究めましょう。

第1章 仏教とは何か

仏教とは仏陀になるための教えです。それに関係しないことは二次的で恣意的なことです。殺生をしないとか、出家するとか、頭を丸めるとか、数珠をもってお経をあげるとか、線香を焚くとか、そういったことは仏教の本質には直接関係はありません。仏教の本質は仏陀になることです。仏陀になることを悟るとか解脱するとかいいます。それでは仏陀になるとはどういうことでしょう。結論から言うと空と中観の概念を理解し納得し身につけることです。「解脱」という言葉はいかにも怪しげです。「仏陀」とは覚醒した者という意味でこれも誤解を受けやすい言葉です。オカルト的なにおいがあり実際新興宗教でもそのように使われました。「解脱すると人間を超えた究極の存在になる」「特殊な精神状態に達して特殊な能力を身につける」などです。実際には解脱という言葉は「輪廻転生から解放される、脱する、輪廻転生をしなくて済む存在になる」という意味ですが、実は古代からなされてきたこの解釈からして誤解です。いかにお釈迦様の悟ったことが正しく伝わらなかったかの典型例とも言えます。

仏教の教典は三蔵と言われ経蔵、律蔵、論蔵からなります。ドラゴンボールのもとになった西遊記という小説では中国からインドへ仏教文書を求めに三蔵法師玄奘というお坊様がサルの孫悟空を従えて旅に出ますが三蔵法師とは時の中国皇帝によってつけられた「三蔵を求めに行くもの」という意味です。経とはお釈迦様の言行の記録、律とは教団や教徒の戒律、論蔵とは仏教徒が行ったお釈迦様の教えの解釈です。

そもそもお釈迦様は苦行の後菩提樹の下でお悟りになった時に満足して死んでしまおうとなさいましたが、思い直して自分の悟った内容を世に伝えようとなさいました。

ここから悟った人には生きていようが生きていまいがどうでもよかったことが分かります。つまり悟りの内容は世俗の生き方とは関係がないのです。そもそもお釈迦様は悟っていようがいまいが元々厭世的な性格の方でした。

しかし教えを世の中に広め伝えていこうと考えれば俗世間的な活動が必要です。そもそも教える弟子や教徒を作らなければいけません。また教える内容をまとめて、さらに教え方も考えなければいけません。必然的に世俗的な組織化、教団作りが必要です。維持するためにはコストも労力も必要でしょうし援助者も必要です。組織ですから教えとは直接関係ない教団内のルールを作らなければいけません。経営者にならなければいけないわけです。世の中往々として正論(この場合悟りの内容)だけではすみません。事務、雑務が必要でしかも教えの本質を伝えることよりもそういった実務が仕事の大半を占め煩わされことが往々にありますがお釈迦様も例外ではなかったかもしれません。

そうして35歳で悟ってから80歳までの45年間伝道を続けたわけですが、そこまでしても弟子は悟ったか?

教えを正しく後世に伝えられたか?

また釈迦自身が講義内容を適切にまとめられたか?

などはっきりしません。

お釈迦様の時代の仏教を原始仏教といいます。お釈迦様が入滅したのち、仏典結集や根本分裂、枝葉分裂などの時代を部派仏教と言います。古い時代の記録が残っていると思われるインドではイスラム教徒が、チベットでは中国が文化大革命で破壊したと思われ、スリランカなど南伝仏教系の記録は意図的な破壊はされていないと思いますが古い時代の事なので確たることは分かりません。

その後インドでナーガールジュナが空論と中観論という理論を確立し大乗仏教が確立します。空と中観の概念は釈迦の悟った因縁生起や中道と同じものと思われますが確かなことは分かりません。インドから南にスリランカ、東南アジアなどに広がった南伝仏教である上座部仏教がどのように発展したのか詳細は分かりません。日本に伝わったのはチベットやシルクロードなどから中国へ伝わった北伝の大乗仏教ですので本書では仏教として大乗仏教を指すものとします。

多分、空と中観を理解して悟った人は歴史上、有名、無名を問わず存在していたと思われますが、全く悟った人がいなかった時代もあったかもしれませんし、悟った人が複数出ていた時期があったかもしれません。天台宗の中興の祖であり中国仏教の中興の祖ともいえる天台智顗は三諦論を唱えました。これはナーガールジュナの空論、中観論と同じものですし、龍樹をさらに洗練させたものと言えるかもしれません。本邦の日蓮は三諦論と法華経に帰れといいました。これは日蓮が三諦論を理解していた可能性を示唆します。

空や中観の概念に対して他の仏教の諸概念は空や中観と矛盾しなければ何でも構わないとさえ言ってもいいかもしれません。

では空と中を勉強しましょう。

第2章「空」は難しい、「中観」はかんたん

中観論は実は簡単です。中観というのは現代的に言えば相対主義です。中立に観る、独立に観るというのが現代的な言い方になるでしょう。何を独立にみるかというと空論と並ぶ「戯論」を中論とは独立に観るということです。中間は中道とも中庸とも異なる概念です。お釈迦様の中道はおそらく本来は中観と同じだったと思いますがその様な概念としては残念ながら伝わっていません。中観とは「空論と戯論を独立な理論と考えよ」というものです。空論が成り立って戯論が成り立つ場合も成り立たない場合もあるし、空論が成り立たなくても戯論が成り立つ場合も成り立たない場合もあるという意味です。言い換えると空論が成り立つかどうかと戯論が成り立つかどうかは無関係と言う意味です。中の反対は極端でしょう。空論は肯定するが戯論は否定する、あるいは空論は否定するが戯論は否定するという極論に走るなということです。一方の極、一方の端にだけ立ち他方の極、他方の端を否定することを背反と言います。現代でもそうですが“独立”の概念と“背反”の概念は関係しつつも異なるものですが混同することがあります。これは理系では「独立」と「背反」という概念は数学では必ず習いますが、数学を勉強していない文系の場合には全然知らない、あるいは曖昧にしか理解していない事があるためです。

仏教はあくまで知的な世界であり思考による理解が大切であり、情緒によるなんとなくわかっているつもりは全く必要ありません。

ですから中観論は簡単です。また戯論も簡単です。

問題は空論です。これは理解するのが簡単とは言えませんでした。現代は文明が発達し空を理解するための例えがたくさんあります。お釈迦様の時代には文物が貧弱であり空を説明するために例えられる比喩が貧弱でした。お釈迦様も大変苦労なさったでしょう。

空の理解が難しい理由のもう一つが空を理解しなくても普通に生きていける事です。

生きるため、幸福になるためには空の理解は必要ない人は多いでしょう。

お釈迦様の様な求道者は別として求めたいとも思わないかもしれません。お釈迦様は特殊な性格のお方です。お釈迦様は王位継承者でしたから物質的には豊かで恵まれていました。それでも抽象的な真理を追究しないではいられなかった知的な性格の持ち主でした。生老病死を悲観し苦から逃れるために王子の地位を捨て出家したと伝えられますが、一方で圧倒的に知的な人物であったと思われます。真理を求めずにはいられなかったのでしょう。好奇心は人間の意欲を生じさせるものの1つです。では空について次章で説明します。

第3章 空とは

空は無とは違います。無の反対は有でしょう。空の反対は実と考えてみましょう。ブドウの実で例えると空はブドウの皮、実はブドウの実です。別の例えをしてみましょう。家で例えると空は空き家です。実は住民が済んで家具もあり生活している家です。また人間で例えてみましょう。空とは中身のない薄っぺらい表面主義的で皮相な人間です。稼ぎも少なく解消なしで知能も低く身体能力が低くて運動も出来ない、また倫理感も意志も生きる目的もない、しかし自分の快楽を求め苦痛を逃れるため表面をきれいにし着飾り頭が良いふりをし内容があるように見せかけるかっこつけ男を考えてみましょう。娘が結婚相手としてそんな男を連れてきたらお父さんが起こるのは必須です。またその男の見せかけに騙されて政治家になったり上司に気に入られて出世したりしたら嫉妬したり嫌ったりする人もいるでしょう。「実(じつ)のない男(ひと)」という表現がありました。しかし見た目とイメージがよく人の受けがよく人気も評判もよいです。でも何もできない。

その反対が中身のある男です。昔は「実のある人」という表現がありました。その人が中身はあっても見かけも人からの評価も全く興味がなく気にしない人だったらどうでしょう。科学なり数学なり思想なり芸術なりスポーツなり職人なりで何か超一流の能力があります。しかし見かけをきにせずぼろぼろの恰好で、整容保清がひどく風呂に入らず垢くさい異臭がして不潔で汚い。神も切らず服も着た切り雀です。間違いのない能力がありその道では誰もが認める超一流で他の追随を許しません。でもそれを表面に出すことに興味がなく身の回りの人は変人としてどんなにすごい人かわからず生きているような人がいつの時代にも世にもいます。

空を説明するためにその反対を実として3つの極端な例で空のイメージを例示しました。