1番やさしいラカン入門

2022/03/31

はじめに

ジャック・ラカンはフランス人の精神科医、精神分析家、現代思想家です。
現代哲学の完成に大きく貢献しました。
歴史的にはラカンの理論から現代哲学が生まれたと捉える事が出来ます。


現代はラカンの理論でなくても現代哲学を習得する事は出来ます。
ただ自己とは何か、精神とは何かと言った問題から現代哲学をマスターしたければやはり解説書も多いですしラカンの理論を学ぶのが早いでしょう。

今まではラカンの理論を解説する時は深く詳細に解説してきましたが、今回は表面的に形式的な説明からラカン理論の理解の入り口に立っていただこうと考えています。文字通り初級編ではなく入門です。

多分ラカンは仏教からも影響を受けており、ラカン理論は大乗仏教の空の理論とも同じもので仏教の理解にも役に立ちます。
みんなでラカンを理解して現代哲学や仏教をマスターしましょう。

第1章 ラカンの理論の概要

ラカンの理論は下の2つの図に集約されます。

ラカンの理論_図2

この2つの図の理解から話をはじめましょう。
上の図はボロメオの環と呼ばれています。
ボロメオ家という貴族の紋章であるだけに関わらず、古代から色々な形で用いられてきました。
日本では三つ違えの紋と呼ばれ神社の社紋などでも使われています。

ここで表現されているのは人間の精神は3つの側面からなるということです。
3つをそれぞれ現実界、想像界、象徴界といいます。
現実界とは我々が自分の外部に感じる世界です。

想像界とは我々の頭の中に浮かぶ表象です。
象徴界とは我々が何かを対象として意識する際に実体として認識される事物です。

我々は現象として感じる外部世界や内面的な表象の中の何かの対象に注意を向けるとそれを実体と感じる心の仕組みがあります。
実体はリアリティーを持って存在していると感じられます。
概念を持っているとも感じられます。

その様なものはレベルに応じた象徴化が可能で、例えば名前を付ける言語化、記号化、図象化など抽象的なものから具体的なもので様々な形でシンボライズすることができます。

我々の知性や理性で正確にコントロールできる可能性があるのは象徴だけですのでこれは一つの界として特別に分類します。
この実体の感覚が普通は実在するものがあるという実在論の根拠になります。

この実在するものがあるかどうかについては実証も証明も出来たためしがなく検証不能であるというのがポスト構造主義以降の考え方です。

実際に存在するものがないのに事物の実体の感じるのはおかしいので、実在するものはあるというのが近代前の考え方で暗黙の前提でした。
実際に物事が存在しなくても人間は実体の感覚を作り上げることができるということを示したのが次に説明するラカンのシェーマLの理論です。

第2章 なぜ我々は実体や実在の感覚を持つのか

 「事物が実際に存在すれば我々は実体の感覚や観念を持つことができる」は比較的分かりやすい考え方でしょう。
一方で「事物が実際に存在しないのに我々は実体の感覚や観念を持つ」というのは直感的に理解し難く説明するためには何らかの理論が必要です。

現代哲学ではその様な理論があります。
それは精神分析学や認知科学、心理学、哲学の存在論と認識論などに構造主義を導入したものになります。

この理論を最初に作ったのはジャック・ラカンと言う思想家です。
時代や地域や文脈を別にすれば仏教のお釈迦様や大乗仏教の祖であるナーガールジュナが同じことをそれに先立つ2000年前に成し遂げていますが、ナーガールジュナはともかくお釈迦様がこれを成し遂げていたかどうかは意見が分かれるところです。

ラカンはフランスの高級インテリですのである程度仏教を知っていたと思われるためラカンが仏教から何らかの発想を得た可能性はあるでしょう。
仮にお釈迦様やナーガールジュナからラカンが着想を借りていたにせよラカンの理論はそれ自体が仏教よりも高度に完成されたものでラカンの学問的評価が下がるものではありません。

学問、もっと言えば科学とは近代においては方法の精神ですので方法をきちんと書き切れていない仏教の理論は現代的には理論とは言えず結論を書いただけのものとさえ言ってもいいかもしれません。

仮にお釈迦様やナーガールジュナがきちんとした方法論を残していたとしても歴史の中で伝わらなかったのでしょう。
ラカンの理論は自己あるいは自我の観念の生成を説明するモデルです。

しかし自己や自我だけでなく全ての実態と見える物事がどのように我々の認識上に生成されるかを説明するモデルとして利用することができます。
この章の最初に書いた疑問「事物が実際に存在しないのに我々は実体の感覚や観念を持つ」のはどのような仕組みによるのかを説明する理論です。

第3章 シェーマL

 自己とか自我とか言葉の細かい説明はおいて「自分」という意識、自己意識がどのように生成されるかについてシェーマLの図に則って説明してみましょう。

4つの記号が矢印でつながれていますが矢印の一番最初の出発点は右下のA(Autre:英語でOther)“大文字の他者”です。
そして全ての矢印が最終的に行き着くのは左下のmoi(英語でme)“自我”です。
ですからこの図式を一言で言えば大文字の他者から自我が生成することを示しています。

大文字の他者とは何でしょうか。
ラカンのボロメオの環を思い出して下さい。
ラカンはこのボロメオの環によって我々が意識的、無意識的に認識するもの、あるいは我々の内面に生成してくるものを3つの側面でまとめています。

大文字の他者はこの全てであると考えてください。
大文字の他者からは2つの矢印が出ていて一つが直接自我を指しています。
我々に現象する世界全てが環境、背景、外部要因として我々の感じる自己意識に影響を与えるということを示しています。

文脈や前提、時間的に見ればここに至る経緯と言えばいいでしょうか。
自己意識も単体では存在しえず色々なものとの関係性で生じます。

これが構造主義の構造という言葉を使う一つの理由になります。

大文字のAから向かうもう一つの矢印はEs(エス、精神分析学ではイドやリビドーなどともよばれる9に向かいます。
Moiを自我とともに自己意識と訳しているのでこの場合はエスは自己意識以外で例えば無意識や潜在意識としてみます。
これはリビドーの訳の欲求や欲望を含むものとします。

大文字の他者すなわち我々に現象する世界は我々の明確に意識できない精神の諸要素に影響を与えます。
図を見るとこの矢印は無意識と名付けられ、「想像的関係」と名付けられている矢印と交差しています。
この交差については後で説明します。

大雑把に言うと世界は我々に良く分からない影響を与える、あるいは影響は与えるがどのように影響を与えるかはよく分かりません。
このエスからはa(autre:英語でいうとother)“小文字の他者”に矢印が発しています。

大文字の他者が世界全体を漠然と指すとすると小文字の他者は我々が実体として感じる個別の物事です。
古典的な考え方では小文字の他者が集まって大文字の他者である世界全体を作るように思われるかもしれませんがもちろんそう考えなくてはいけない根拠はないのでそう考える必要はありません。

ですから大文字の他者と小文字の他者は一旦別のものと考えて何の矢印でも結ばれていません。
この小文字の他者から自我に矢印がのびています。

この矢印は先ほどもあげたように“想像的関係”と呼ばれています。この矢印の意味するところは「実体として認識される他者(自己ではない)事物を自分自身と想像する」ということです。
言い換えると「人間は意識により認識された何かを自分であると想像する」ということになります。

例えば人間は鏡に映った顔を自分の顔と認識します。
この様な認識ができるようになる発達上の段階があって、発達心理学や精神分析学では「鏡像段階」「鏡像関係」などと呼びます。

人間あまりに幼いとそもそも視覚が発達しておらず鏡が見えません。
もう少し大きくなると鏡に映った何かを認識しますがそれを自分の顔とは認識しません。
ある発達段階に達すると鏡を見て映った顔を自分の顔と思うようになります。

自己意識の中の一部である「自分の顔」が誕生する瞬間です。

鏡の顔を自分の顔と想像するのです。
自己認識とは視覚的認識や顔の認識だけではありません。
人間には顔以外にも色々な体の部位があり、視覚以外にも色々な感覚があります。

自己の1つの要素は自分の体であり鏡や感覚を使うだけでなく、いろいろな方法や感覚を使って「自分の体」のイメージを作り上げていきます。

人間は感覚や物質の側面だけではなく、知情意などの精神的要素があります。
意識される思考や感情や意欲を自分の精神と想像するのも自己意識形成の要素になります。

意識された対象を自己認識に組み入れることを「想像」と呼ぶのは不自然に感じるかもしれません。
「想像」ではなく「自己に関する正確な認識」であれば自己という実体を人間は正確に認識できるということになってすっきりするかもしれません。

近代哲学はこの認識に立っており正確な認識能力を持つ人間の精神を哲学の出発点に置いています。
モダニズムの元祖のデカルトなど思い浮かべて頂ければよいでしょう。

近代哲学から見ればラカンの理論は自己認識というものは正確な認識よりなるものではなく、正確ではないかもしれない認識、あるいは想像から成り立っているに過ぎないと言っている様に読み取れます。
実際にはラカンの考え方の方が近代主義の考え方よりは厳密です。
なぜならば「人間は正確な認識を出来る能力を持っている」ということは証明も実証も出来ずに根拠がない事だからです。

根拠がないことは仮定や仮説に過ぎません。
仮定や仮説を真実や真理と断定することは誤りだからです。
ですから厳密にかつ論理的に考えるならば「正確な認識」ではなく「想像」と呼ぶのが正解です。

最終的な結論としては想像から自己認識や自己意識は生まれます。
自己というものは想像的なものに過ぎません。
しかし実体としてのリアリティを持っているのでmoi(自我)という象徴として捉える事も出来ます。
もし将来実在論が実証されたり証明されたりすれば自己は実在し実体と見なすことも得切るかもしれません。

しかし現段階では実在論は仮定でしかないためラカンの理論が仮定や仮説を排したより厳密な議論となります。
いくつもの創造的関係の積み重ねにより作られたmoi(自我)は実在感(リアリティ)を持っており実体のように感じられます。

小文字の他者が実在する実体であればあれば自己も実在する実体かもしれません。
しかし小文字の他者が実在し実体があるというのも仮定で仮説であり、単に実在や実体のように思えても実際には人間の感じ方でしかなく実在し実体である根拠はありません。

シェーマLより人間が自我にリアリティを感じ実在すると思うまでの仕組みを説明しました。
この理論の中には実在や実体は仮定されていません。

ラカンは自我の認識や意識が生じるプロセスについて説明しましたが、この説明は自己意識や自己認識が生じるプロセスを説明するだけでなく、リアリティを持ち実体と思われている全ての物事がどのように精神に形成されるかを説明するモデルとして使用できます。

左下の自我(moi)を何でも説明したいものに置き換えればいいだけです。
これで我々に実体を持つように思われる全ての物事が精神に構成される仕組みを説明できます。
実在や実体を仮定していないという意味では近代までの無意識に実在や実体を仮定してしまっていた素朴実在論に基づく様々な思想や理論よりは厳密な理論とも言えます。

実体や実在を仮定せずに精神に実体や実在と思えるものが生ずることを説明するために構造主義と言う考え方を用いています。
構造とは形式や関係性を強調するための概念です。
ラカンのシェーマLでは、形式的なA、a、moi、Esなどの記号しか用いられていません。

また記号感の関係を表すために矢印のような帰納的な記号が使われているだけです。
このモデルの中には実在は実体は含まれていません。あるのは形式と関係性だけです。
構造でイメージされる定式化で理論が成り立っています。

第4章 ラカンにおける精神とは何か

西洋哲学は存在論と認識論に集約できます。
また「確かさ」や「正しさ」が問題とされてきました。

ラカンの理論は存在とは何か、認識とは何かについての答えを提供しています。

構造主義を用いていますので構造主義的存在論、構造主義的認識論と呼ぶことができ、合わせて構造主義的哲学とまとめて呼ぶことができます。

構造主義的哲学は存在論と認識論についての1つの仮説でが、根拠のない実在論を前提として成り立っている近代哲学、理論、思想と比べて厳密です。
仮定や仮説を事実や真理としてしまっていないからです。

ラカンの業績は実体や実在等というものを前提としなくても実体や実在を前提とする理論以上に一般的で説得力のある理論が作れることを示したことです。
実際に現代の科学や学問は構造主義を基礎として作られています。

ラカンの理論により実体や実在を仮定する必要がない、というより更に進んで実体や実在を仮定すると整合性があり矛盾がなく完全性(仮定がなく)があり、合理的で形式主義的な理論が作れない場合があることを示しています。
形式主義であることは大切で主観が入らず誰が理論を用いても同じ結果になるので正確なコミュニケーションが保障される可能性があります。

ラカンの理論はまた同一性や恒常性神話の解体になります。
仏教でいえば諸行無常、諸法無我です。
またラカン理論を用いれば実体のように見えるものを解体できますし、分析も出来ますし、実体を作り出すことができます。

仏教でいえば空は実(色、仮、戯ともいう)より生産性もあり融通が効きます。

ラカンの理論は当時の(今でも)精神分析家の主流にはなりませんでしたが、その代わり哲学の主流になり、最終的には西洋哲学を終焉に導きました。

第5章 おわりに

ラカンを知れば現代哲学を容易に理解できるようになりますし、遡って西洋哲学のみならず東洋哲学を含めた過去の思想の理解が容易になります。
過去の思想を理解するということは過去の思想の欠陥を発見する事でもあるからです。

過去の思想は往々に思想家が気付かぬ思い込みを前提にしているのですが思想家にその自覚がないので説明がありません。
そういった思想のあらを探すのが過去の思想を理解する際のテクニックの1つになります。

現代哲学からみて文句がつけにくいのが2000年以上前の仏教と20世紀直前から初頭にかけての現代数学です。
どちらも現代哲学と同じ内容なので文句のつけようがありません。

西洋近代科学の中では数学が圧倒的に哲学に先行していました。
理系、文系と言いますが理はことわりを指し、文は文字列を指します。
科学の女王は数学の天才ガウスによれば数学です。

ガウスは多言語を解す有能な文系の人でもありました。
文の研究は言語学、文献学、書誌学、歴史学などがありますがどれも現代哲学の誕生の母体となっています。
各学問分野で構造主義は花開くのですが結果的に構造主義的哲学を確立したのは精神の研究者であったジャック・ラカンでしょう。