診療コラム

2022/03/31

1番やさしいラカン入門

はじめに

ジャック・ラカンはフランス人の精神科医、精神分析家、現代思想家です。
現代哲学の完成に大きく貢献しました。
歴史的にはラカンの理論から現代哲学が生まれたと捉える事が出来ます。


現代はラカンの理論でなくても現代哲学を習得する事は出来ます。
ただ自己とは何か、精神とは何かと言った問題から現代哲学をマスターしたければやはり解説書も多いですしラカンの理論を学ぶのが早いでしょう。

今まではラカンの理論を解説する時は深く詳細に解説してきましたが、今回は表面的に形式的な説明からラカン理論の理解の入り口に立っていただこうと考えています。文字通り初級編ではなく入門です。

多分ラカンは仏教からも影響を受けており、ラカン理論は大乗仏教の空の理論とも同じもので仏教の理解にも役に立ちます。
みんなでラカンを理解して現代哲学や仏教をマスターしましょう。

第1章 ラカンの理論の概要

ラカンの理論は下の2つの図に集約されます。

ラカンの理論_図2

この2つの図の理解から話をはじめましょう。
上の図はボロメオの環と呼ばれています。
ボロメオ家という貴族の紋章であるだけに関わらず、古代から色々な形で用いられてきました。
日本では三つ違えの紋と呼ばれ神社の社紋などでも使われています。

ここで表現されているのは人間の精神は3つの側面からなるということです。
3つをそれぞれ現実界、想像界、象徴界といいます。
現実界とは我々が自分の外部に感じる世界です。

想像界とは我々の頭の中に浮かぶ表象です。
象徴界とは我々が何かを対象として意識する際に実体として認識される事物です。

我々は現象として感じる外部世界や内面的な表象の中の何かの対象に注意を向けるとそれを実体と感じる心の仕組みがあります。
実体はリアリティーを持って存在していると感じられます。
概念を持っているとも感じられます。

その様なものはレベルに応じた象徴化が可能で、例えば名前を付ける言語化、記号化、図象化など抽象的なものから具体的なもので様々な形でシンボライズすることができます。

我々の知性や理性で正確にコントロールできる可能性があるのは象徴だけですのでこれは一つの界として特別に分類します。
この実体の感覚が普通は実在するものがあるという実在論の根拠になります。

この実在するものがあるかどうかについては実証も証明も出来たためしがなく検証不能であるというのがポスト構造主義以降の考え方です。

実際に存在するものがないのに事物の実体の感じるのはおかしいので、実在するものはあるというのが近代前の考え方で暗黙の前提でした。
実際に物事が存在しなくても人間は実体の感覚を作り上げることができるということを示したのが次に説明するラカンのシェーマLの理論です。

第2章 なぜ我々は実体や実在の感覚を持つのか

 「事物が実際に存在すれば我々は実体の感覚や観念を持つことができる」は比較的分かりやすい考え方でしょう。
一方で「事物が実際に存在しないのに我々は実体の感覚や観念を持つ」というのは直感的に理解し難く説明するためには何らかの理論が必要です。

現代哲学ではその様な理論があります。
それは精神分析学や認知科学、心理学、哲学の存在論と認識論などに構造主義を導入したものになります。

この理論を最初に作ったのはジャック・ラカンと言う思想家です。
時代や地域や文脈を別にすれば仏教のお釈迦様や大乗仏教の祖であるナーガールジュナが同じことをそれに先立つ2000年前に成し遂げていますが、ナーガールジュナはともかくお釈迦様がこれを成し遂げていたかどうかは意見が分かれるところです。

ラカンはフランスの高級インテリですのである程度仏教を知っていたと思われるためラカンが仏教から何らかの発想を得た可能性はあるでしょう。
仮にお釈迦様やナーガールジュナからラカンが着想を借りていたにせよラカンの理論はそれ自体が仏教よりも高度に完成されたものでラカンの学問的評価が下がるものではありません。

学問、もっと言えば科学とは近代においては方法の精神ですので方法をきちんと書き切れていない仏教の理論は現代的には理論とは言えず結論を書いただけのものとさえ言ってもいいかもしれません。

仮にお釈迦様やナーガールジュナがきちんとした方法論を残していたとしても歴史の中で伝わらなかったのでしょう。
ラカンの理論は自己あるいは自我の観念の生成を説明するモデルです。

しかし自己や自我だけでなく全ての実態と見える物事がどのように我々の認識上に生成されるかを説明するモデルとして利用することができます。
この章の最初に書いた疑問「事物が実際に存在しないのに我々は実体の感覚や観念を持つ」のはどのような仕組みによるのかを説明する理論です。

第3章 シェーマL

 自己とか自我とか言葉の細かい説明はおいて「自分」という意識、自己意識がどのように生成されるかについてシェーマLの図に則って説明してみましょう。

4つの記号が矢印でつながれていますが矢印の一番最初の出発点は右下のA(Autre:英語でOther)“大文字の他者”です。
そして全ての矢印が最終的に行き着くのは左下のmoi(英語でme)“自我”です。
ですからこの図式を一言で言えば大文字の他者から自我が生成することを示しています。

大文字の他者とは何でしょうか。
ラカンのボロメオの環を思い出して下さい。
ラカンはこのボロメオの環によって我々が意識的、無意識的に認識するもの、あるいは我々の内面に生成してくるものを3つの側面でまとめています。

大文字の他者はこの全てであると考えてください。
大文字の他者からは2つの矢印が出ていて一つが直接自我を指しています。
我々に現象する世界全てが環境、背景、外部要因として我々の感じる自己意識に影響を与えるということを示しています。

文脈や前提、時間的に見ればここに至る経緯と言えばいいでしょうか。
自己意識も単体では存在しえず色々なものとの関係性で生じます。

これが構造主義の構造という言葉を使う一つの理由になります。

大文字のAから向かうもう一つの矢印はEs(エス、精神分析学ではイドやリビドーなどともよばれる9に向かいます。
Moiを自我とともに自己意識と訳しているのでこの場合はエスは自己意識以外で例えば無意識や潜在意識としてみます。
これはリビドーの訳の欲求や欲望を含むものとします。

大文字の他者すなわち我々に現象する世界は我々の明確に意識できない精神の諸要素に影響を与えます。
図を見るとこの矢印は無意識と名付けられ、「想像的関係」と名付けられている矢印と交差しています。
この交差については後で説明します。

大雑把に言うと世界は我々に良く分からない影響を与える、あるいは影響は与えるがどのように影響を与えるかはよく分かりません。
このエスからはa(autre:英語でいうとother)“小文字の他者”に矢印が発しています。

大文字の他者が世界全体を漠然と指すとすると小文字の他者は我々が実体として感じる個別の物事です。
古典的な考え方では小文字の他者が集まって大文字の他者である世界全体を作るように思われるかもしれませんがもちろんそう考えなくてはいけない根拠はないのでそう考える必要はありません。

ですから大文字の他者と小文字の他者は一旦別のものと考えて何の矢印でも結ばれていません。
この小文字の他者から自我に矢印がのびています。

この矢印は先ほどもあげたように“想像的関係”と呼ばれています。この矢印の意味するところは「実体として認識される他者(自己ではない)事物を自分自身と想像する」ということです。
言い換えると「人間は意識により認識された何かを自分であると想像する」ということになります。

例えば人間は鏡に映った顔を自分の顔と認識します。
この様な認識ができるようになる発達上の段階があって、発達心理学や精神分析学では「鏡像段階」「鏡像関係」などと呼びます。

人間あまりに幼いとそもそも視覚が発達しておらず鏡が見えません。
もう少し大きくなると鏡に映った何かを認識しますがそれを自分の顔とは認識しません。
ある発達段階に達すると鏡を見て映った顔を自分の顔と思うようになります。

自己意識の中の一部である「自分の顔」が誕生する瞬間です。

鏡の顔を自分の顔と想像するのです。
自己認識とは視覚的認識や顔の認識だけではありません。
人間には顔以外にも色々な体の部位があり、視覚以外にも色々な感覚があります。

自己の1つの要素は自分の体であり鏡や感覚を使うだけでなく、いろいろな方法や感覚を使って「自分の体」のイメージを作り上げていきます。

人間は感覚や物質の側面だけではなく、知情意などの精神的要素があります。
意識される思考や感情や意欲を自分の精神と想像するのも自己意識形成の要素になります。

意識された対象を自己認識に組み入れることを「想像」と呼ぶのは不自然に感じるかもしれません。
「想像」ではなく「自己に関する正確な認識」であれば自己という実体を人間は正確に認識できるということになってすっきりするかもしれません。

近代哲学はこの認識に立っており正確な認識能力を持つ人間の精神を哲学の出発点に置いています。
モダニズムの元祖のデカルトなど思い浮かべて頂ければよいでしょう。

近代哲学から見ればラカンの理論は自己認識というものは正確な認識よりなるものではなく、正確ではないかもしれない認識、あるいは想像から成り立っているに過ぎないと言っている様に読み取れます。
実際にはラカンの考え方の方が近代主義の考え方よりは厳密です。
なぜならば「人間は正確な認識を出来る能力を持っている」ということは証明も実証も出来ずに根拠がない事だからです。

根拠がないことは仮定や仮説に過ぎません。
仮定や仮説を真実や真理と断定することは誤りだからです。
ですから厳密にかつ論理的に考えるならば「正確な認識」ではなく「想像」と呼ぶのが正解です。

最終的な結論としては想像から自己認識や自己意識は生まれます。
自己というものは想像的なものに過ぎません。
しかし実体としてのリアリティを持っているのでmoi(自我)という象徴として捉える事も出来ます。
もし将来実在論が実証されたり証明されたりすれば自己は実在し実体と見なすことも得切るかもしれません。

しかし現段階では実在論は仮定でしかないためラカンの理論が仮定や仮説を排したより厳密な議論となります。
いくつもの創造的関係の積み重ねにより作られたmoi(自我)は実在感(リアリティ)を持っており実体のように感じられます。

小文字の他者が実在する実体であればあれば自己も実在する実体かもしれません。
しかし小文字の他者が実在し実体があるというのも仮定で仮説であり、単に実在や実体のように思えても実際には人間の感じ方でしかなく実在し実体である根拠はありません。

シェーマLより人間が自我にリアリティを感じ実在すると思うまでの仕組みを説明しました。
この理論の中には実在や実体は仮定されていません。

ラカンは自我の認識や意識が生じるプロセスについて説明しましたが、この説明は自己意識や自己認識が生じるプロセスを説明するだけでなく、リアリティを持ち実体と思われている全ての物事がどのように精神に形成されるかを説明するモデルとして使用できます。

左下の自我(moi)を何でも説明したいものに置き換えればいいだけです。
これで我々に実体を持つように思われる全ての物事が精神に構成される仕組みを説明できます。
実在や実体を仮定していないという意味では近代までの無意識に実在や実体を仮定してしまっていた素朴実在論に基づく様々な思想や理論よりは厳密な理論とも言えます。

実体や実在を仮定せずに精神に実体や実在と思えるものが生ずることを説明するために構造主義と言う考え方を用いています。
構造とは形式や関係性を強調するための概念です。
ラカンのシェーマLでは、形式的なA、a、moi、Esなどの記号しか用いられていません。

また記号感の関係を表すために矢印のような帰納的な記号が使われているだけです。
このモデルの中には実在は実体は含まれていません。あるのは形式と関係性だけです。
構造でイメージされる定式化で理論が成り立っています。

第4章 ラカンにおける精神とは何か

西洋哲学は存在論と認識論に集約できます。
また「確かさ」や「正しさ」が問題とされてきました。

ラカンの理論は存在とは何か、認識とは何かについての答えを提供しています。

構造主義を用いていますので構造主義的存在論、構造主義的認識論と呼ぶことができ、合わせて構造主義的哲学とまとめて呼ぶことができます。

構造主義的哲学は存在論と認識論についての1つの仮説でが、根拠のない実在論を前提として成り立っている近代哲学、理論、思想と比べて厳密です。
仮定や仮説を事実や真理としてしまっていないからです。

ラカンの業績は実体や実在等というものを前提としなくても実体や実在を前提とする理論以上に一般的で説得力のある理論が作れることを示したことです。
実際に現代の科学や学問は構造主義を基礎として作られています。

ラカンの理論により実体や実在を仮定する必要がない、というより更に進んで実体や実在を仮定すると整合性があり矛盾がなく完全性(仮定がなく)があり、合理的で形式主義的な理論が作れない場合があることを示しています。
形式主義であることは大切で主観が入らず誰が理論を用いても同じ結果になるので正確なコミュニケーションが保障される可能性があります。

ラカンの理論はまた同一性や恒常性神話の解体になります。
仏教でいえば諸行無常、諸法無我です。
またラカン理論を用いれば実体のように見えるものを解体できますし、分析も出来ますし、実体を作り出すことができます。

仏教でいえば空は実(色、仮、戯ともいう)より生産性もあり融通が効きます。

ラカンの理論は当時の(今でも)精神分析家の主流にはなりませんでしたが、その代わり哲学の主流になり、最終的には西洋哲学を終焉に導きました。

第5章 おわりに

ラカンを知れば現代哲学を容易に理解できるようになりますし、遡って西洋哲学のみならず東洋哲学を含めた過去の思想の理解が容易になります。
過去の思想を理解するということは過去の思想の欠陥を発見する事でもあるからです。

過去の思想は往々に思想家が気付かぬ思い込みを前提にしているのですが思想家にその自覚がないので説明がありません。
そういった思想のあらを探すのが過去の思想を理解する際のテクニックの1つになります。

現代哲学からみて文句がつけにくいのが2000年以上前の仏教と20世紀直前から初頭にかけての現代数学です。
どちらも現代哲学と同じ内容なので文句のつけようがありません。

西洋近代科学の中では数学が圧倒的に哲学に先行していました。
理系、文系と言いますが理はことわりを指し、文は文字列を指します。
科学の女王は数学の天才ガウスによれば数学です。

ガウスは多言語を解す有能な文系の人でもありました。
文の研究は言語学、文献学、書誌学、歴史学などがありますがどれも現代哲学の誕生の母体となっています。
各学問分野で構造主義は花開くのですが結果的に構造主義的哲学を確立したのは精神の研究者であったジャック・ラカンでしょう。

2022/03/07

メンタルクリニックで見る脱水

隠れた脱水

 脱水症という言葉はみなさんご存じでしょう。
「夏場は脱水症に注意!」というようなキャッチフレーズにも使われます。
ひどい脱水症でぐったりしている場面を何かで見たことがあるかもしれません。

ここでは心療内科・精神科のクリニックでみかける軽い脱水を紹介します。

心療内科や精神科のクリニックで重度の脱水症ではなく軽度の脱水症、あるいは脱水症とまでは言えない脱水症の前の前脱水状態で、比較的慢性、反復性、あるいは季節や時節に関係してみられるので生活習慣や年や年度の時期、仕事や家庭の状態や気温や気圧などと関係して変動するようです。

 人間の体液量や電解質バランスは夏に限らずいつの季節にも1日の中でも変動します。
若くて元気な人であれば多少の脱水や電解質変動があっても体調の異常は感じないかもしれません。
しかし体が弱い子供やお年寄りや普段からいつも体調に不調を感じている人、自分を不健康さを体感している人は脱水でも電解質異常でも軽度の身体の変化でも身体愁訴や不定愁訴が生じたり悪化したりすることがあります。

 精神科外来で見る軽い脱水、あるいは前脱水状態について解説します。

気付かない脱水

 のどが渇けば飲み物を飲めばいい、と言うのであれば脱水も簡単なのですがそうでない場合がたくさんあります。
そもそも喉が渇いてしまっている段階ですでに手遅れでちょっと脱水になってします。
脱水でちょっと体調から崩れてしまってから補液しても症状改善に時間がかかったり、体調不良感をそのまま引きずってしまう場合があります。
ですから脱水は予防が大切です。

 アメリカの軍隊やスポーツ医学では体がどう感じるかに関わらず定期的に補水、補液をさせます。
のどが渇いてから自由に補液させるよりその方がいいという科学データが出ているからです。

脱水なら喉が渇きそうですが喉の渇きを感じないのに脱水であることがたくさんあります。
倦怠感や疲労感だけ感じるので疲れやストレスや寝不足と判断される場合もあります。
気持ち悪さと食欲低下を訴える人にスポーツドリンクを飲んでもらうと症状がなくなってしまう場合もあります。
気持ち悪く食欲がなくても気持ち悪さを感じず飲み物を飲めます。
頭痛や肩こり、めまいを訴える人に経口補液してもらうと症状が改善したりします。

 この症状がひどくなってストレスや疲労、寝不足があったり回転性のめまいがあったりするとメニエール病をはじめとする内耳性のめまい症と診断されたりします。

 逆に頭重や疲労、立ち眩みやふらつきなどを感じる段階で経口補液と休憩を取ってもらうただけでメニエール病などの発症を予防できます。

 メニエールはないリンパ浮腫が原因と言われていて体液の異常が病因、病理になります。
内耳の異常やがん税疲労なども頭部や首、肩、背中などのこりと連動することが多いです。

 脱水になるとこむら返りになりやすくなったり寒さのように筋肉が固まりやすくなったりしてけがをしやすくなります。
後で触れますが日本人は昔より普段の体液が減少していると考えられます。

 数十年にわたる減塩指導と低炭水化物、高蛋白質の食事の流行、健康意識の高まりなどが関係していると思われます。
日中国交回復後中国に東洋医学の勉強に留学なさった先生方が帰国時日本の空港にいる日本人の顔がむくんで見えると仰っておられました。

 体液過剰で起こる不定愁訴を日本漢方では水毒と言います。
日本食は健康的な食事ですが昔は炭水化物と塩分が多くてそれによる長所短所がありました。
おそらく昔の日本人の方が体は小さいけれども保水なしで耐久力があり長時間働けるなどの面があったのでしょう。

 またダイエット志向で食を抑えると食事からの水分摂取が減少します。
一般的には水分摂取は飲み物の摂取よりは食事からの摂取の方が量が多いのです。

 脱水は脱水特異的な症状がなかったり、他の病気と同時に起きたりするので脱水の存在を見落とすことがあります。
救急患者にとりあえず血管確保して点滴をするのは救急患者が体調不良や食欲低下で脱水状態になっていることも一つの理由です。
急性腹症と呼ばれる急な腹痛は救急外来を受診してお半分以上が検査で原因不明です。

 静脈確保は採血や薬剤投与など複数の理由で行われますが静脈ルートを確保するために点滴していると検査結果を待っている間などに症状が消えてしまい帰宅と自宅観察になる患者さんが多いのは自然に痛みが引いてしまう場合もありますが、こういう場合は点滴静注による補液が効果があった場合も多いのでしょう。

脱水は多様な症状を起こす

心療内科や精神科には原因不明の身体愁訴と不定愁訴の患者さんが多くいらっしゃいます。
多くの心療内科や精神科の患者さんは普通心の苦しさだけではなく体調不良感を同時に持って通院しています。
また他の科で検査しても異常がなく、薬も効かず、心療内科や精神科受診を勧められたり自ら行き着くことはよく見られます。

 精神疾患、あるいは精神状態により様々な身体症状が生じてその殆どが非特異的で脱水でなくても起きる症状です。

 脱水は我々がイメージするような脱水で起こりそうな症状だけでなくなぜ脱水と関係あるのか分からないような非常に様々な症状が生じます。
教科書では脱水症を臨床診察するのに喉の渇きや口喝、皮膚ツルゴールの低下、粘膜乾燥、頻脈などを見るとあります。
しかし脱水症でおこるのはもっと様々な症状です。

 疾患に特徴的な症状もありますが、だるいとか食欲が出ないとか疾患の種類に関係なく色々な疾患で出る症状を非特異的な症状と言います。
脱水は全身に関係しますのでその非特異的な症状がもともと出やすいので一般に知られる倦怠感や粘膜乾燥や口喝や皮膚の弾力や頻脈以外にも非常に様々な症状がでます。
そのうえ教科書で臨床診察確認するとされる症状もよく分からない場合があります。

とくに所見の患者さんなどは分かりにくい場合が多いです。
入院などで毎日様子を診察している患者さんには脱水が敏感にわかります。

 脱水症は脱水以外の色々な異常が併存することがあります。
脱水以外に併存する疾患に目が行って脱水が軽度な場合には見逃したり微妙でも体液バランスを軽視しがちになります。
そもそも倦怠感や疲労感があるだけで人間は色々な体の局所の症状や精神的な影響を受けやすいのは皆さんも経験があるでしょう。

 体液は体全部に関わっているということから考えてみても色々な症状が出る可能性があることは分かると思います。
また脱水はそこに至る経緯により症状や状態像が変わります。
脱水だけでなく他の病態も複雑に複合している場合が多いため前脱水状態や軽い脱水は軽視したり気付かなかったり見逃しがちになることもあります。

 救急で搬送されるような全身状態や意識状態の悪い患者さんはまず血管確保して採血や輸液の点滴を行いますが、この一つの理由は状態の悪い患者さんは飲食ができておらず脱水状態になっている場合が多いからです。

 一次救急や二次救急の患者さんは救急受診しても検査異常がみつからず原因不明の事が少なくありません。
例えばお腹の緊急の不調などを急性腹症といって救急車でよく搬送されてきますが検査異常がなく原因不明のことが多くあります。
診察や検査で待っている間に改善して検査異常もなくベッドで寝ているうちに症状もなくなって家に帰されるケースを経験したことがある人もあるでしょう。

こういう場合、脱水が関わっていることがよくあります。
点滴注射による輸液で脱水が改善すると元気が戻ってくるわけです。

集中や熱中、夢中な時には交感神経が亢進しているので体調の悪さは感じていなくても自覚ないうちに体液量が減っている場合があります。
集中のスイッチが切れたときに気が付くと疲労感や倦怠感、テンションの低下、頭部や頸肩腕、背中など筋肉、骨、間接の違和感、頭部の頭重感や違和感、めまいやふらつき、皮膚の違和感、口喝、食欲低下など感じているときがあるでしょう。
こういう時に疲れや体調の変化とともに脱水などの体液異常、迷走神経や気分や思考などの心理・精神的な変化がある場合があります。

なんとなく脱水というとのどの渇きで判断されそうですが、脱水の種類によってのどの渇きを感じにくい食欲も出ない場合があります。
その場合にのどの渇きや食欲のなさに従って水分や食事を取らないでいると更に脱水が進み、更に水分補給や食事の意欲がなくなって悪循環が生じる場合があります。
また集中や熱中、夢中の間隔の時には仕事が捗っているように主観的に感じやすいですがそういう場合には自覚はしていなくても知力や身体能力、仕事のパフォーマンスは本人が集中しているつもりでも落ちている場合があります。

長時間同じ仕事を続けているとつい同じミスを繰り返して同じやり直しを繰り返すことがあります。
脱水の厄介なのは自覚できない場合があることです。

喉の渇きは脱水の指標になる時もありますが脱水でものどの渇きを感じない場合もあります。
脱水では気持ち悪くなる、つまり吐き気を訴える方がいらっしゃいます。
吐き気はだいたい食思低下を伴います。

嘔気や食思不振でのどの渇きを感じない場合は脱水が進行しやすいです。
ただ脱水の場合は嘔気があっても飲むことは出来て特にスポーツドリンクやジュースなど飲みやすい飲みものは飲んでも気持ち悪くならず逆にそう快感を覚えます。
嘔気や食思不振のような胃腸などの消化器症状も出やすいですが、頭痛や頭重感、ふらつきやめまいなどの症状が出ることも多くあります。

脱水でも熱中症でもその他の色々な状態でもそうですが体には比較的影響を感じやすい、あるいは症状を感じやすい臓器や機関があって、脳や消化器官はその最たるものであり、逆に腎臓や肝臓は沈黙の臓器と言われたりします。
経口補液はいずれにしても症状改善に寄与しますが一回コンディションを崩すと体調不良感がすっかり消えず残る場合もあります。

ですから脱水は予防が大切です。

スポーツ時や軍隊の行軍などでは定期的に決まった時間での補液をとることや、その必要性の教育や、あるいは司令官やトレーナーによるしつこいくらいの経口補水の指導があります。

しかし重い脱水症が起こりにくい分野では脱水に対する啓発や教育はありません。
ですから脱水の知識がなく脱水に対する感度不足の場合があります。
いわゆるホワイトワーカーと言われるデスクワークで事務仕事やコンピュータと向かい合っている方がそれにあたります。

座り仕事と脱水

 夏場は熱中症が起こりやすく、熱中症のタイプの1つが脱水集ですし、それ以外の電解質異常や熱射病にも多かれ少なかれ脱水が混在しています。
これは年配者や部活の子供、野外労働をしている人などに多いのです。

例えばデスクワークがメインのホワイトワーカーの人は基本的に自分には脱水は関係ないと気にしませんし知識もありません。
しかし心療内科や精神科のクリニックで診療していると、ホワイトワーカーの患者さんでも軽度の脱水や体液バランスの不均衡を思わせる症例が見られます。

分かりやすいのは午後や夕方、夜に仕事終わりにいらっしゃる患者さんです。
顔色や頬がこけて見え口は乾き、表情に生気なく、話しや動作の量が少なく、スピードも遅く緩慢です。
仕事帰りで当然疲れているのでしょうが、これに加えて脱水の傾向が見られます。
場合によっては低血糖やコーヒー飲みすぎの離脱症状などもあるかもしれません。

 現代のデスクワークはコンピュータの前で姿勢が固定されます。
集中していた仕事が多くて急いだりすると2時間、3時間と座ったままで作業することになりがちです。
こまめに補液しないと実はパフォーマンスが下がるかもしれないという知識がなければ、飲食も忘れて作業することになります。

 集中している時や交感神経が働いている時には人間は渇きには鈍感です。
寧ろぶっ続けで休憩を取らずに仕事に熱中していれば高い充実感や達成感を得られて満足できるように感じるかもしれません。
そもそも昭和生まれの世代では部活や作業中に飲水してはだめだという教育をうけている場合すらあります。

 昔の水で伝染病が発生し易かった時代や、規律を重視した時代の名残でしょうか。
あるいは渇きの中でどれだけ頑張れるかがステータスであった時代があったのかもしれません。

 現代は例え事務仕事であれこまめな補水、補液が大切です。
疲れてから、乾いてからでは遅いです。
戦わずして勝つのが上策です。

 そもそも疲れない、乾かないのが一番です。
デスクワークの問題点の2番目は体液循環と体液分布に支障が出ることです。

 人間は寝た姿勢であれば極力重力の影響なく体液を循環できるでしょう。
しかし立った姿勢でずっといると重力の影響で体液が体の下の方に落ちていきます。
そうすると体の上の方は体液不足になります。

 体循環で優先されるのは脳です。
立つと血が下へ落ちてしまうのであれば臥位から立ち上がると頭に血が回らなくなってしまうのではと思うかもしれません。
実際それが起こることがあって立ち眩み、あるいは起立性低血圧といいます。

 自律機能の主役である自律神経系の機能障害や末梢動脈の抵抗を変えることで血圧や血流調整を行う血管運動性の機能障害で起こります。
そのまま意識を失ってしまうこともありますが体は出来るだけ脳への血流を維持するように働きます。
心臓は脈拍を上げ心拍出量を上げようとしますし、脳以外の末梢の血流を減らすことで脳への血流を確保します。

 体中に動脈が張り巡らされていて血管ごとに血管内圧は違います。
一般に血圧と呼ばれているものは心臓から拍出された直後の大動脈の血管内圧の測定を目指しています。
それに一番近くて太いため血管内圧の減衰が少なくてカフを巻いて聴診できる血管が上腕の動脈なので普通血圧と言うと上腕の動脈の血管内圧を指します。

 頸動脈も同じ条件を満たしますが首にカフを巻いて締め付けるわけにはいかないので採用されていません。
血管内圧は重力の影響を受けるので図る際には図る動脈の高さを心臓の高さに合わせます。
上腕の高さを心臓に合わせないと程度に応じてかなり不正確な血圧になるので注意が必要です。

 動脈や静脈の血管内圧も、血管外の間質液の圧力も重力の影響を受けます。
立位では体の下の方に体液が集まり下肢から体液が心臓に戻るのは大変です。
同じように体の上の方では重力に逆らって血液を送るのは大変です。
従って下の拡張期血圧は立位で測定した方が臥位で測定するよりも高くなります。

 これは立位でも重力に負けずに拡張期にも血流を脳に上らせるためです。

 血管内圧は電磁気学のオームの法則のように抵抗による減損があり、皮膚は柔らかいので間質圧は一部皮膚の拡張に働き皮膚により押し返される力も減損があります。
固いが容積拡張しないように体の下の方程真皮が厚い傾向があります。

 まとめると立位では体液を循環させるのが大変で特に心臓に負担がかかります。
心臓以外の循環系にも負担がかかります。

例えば立ち仕事や満員電車での通勤時間が長い人は下肢静脈瘤ができやすくなります。
他方で臥位では体の高低差が少なく重力の影響を受けにくいので心臓をはじめとする循環系に負担がかかりにくくなります。
それでも重力の影響があるので死亡した場合死体の下側には死斑と言う血液の貯留が生じます。

 座位も立位よりはましですが心臓に負担がかかります。
エコノミー症候群は有名です。
また座り仕事の人は体を動かす仕事の人に比べて寿命が短い傾向にあると言われています。

 臥位は心臓の負担が少ないです。
更に負担を下げようとするとショック位と呼ばれるような体位があります。
例えば臥位で両脚を持ち上げれば脚の体液が脚より頭側に集まるので心臓の負担が減ります。

 更に心臓の負担を下げる方法として体を包む媒質の圧力を上げる方法があります。
素潜りで100m潜れば11気圧が体表にかかり四肢や腹部臓器が圧迫されて血流が減少、胸郭に守られた心臓や肺と頭蓋骨に守られた脳に血流が集中し循環抑制により心臓の負担が減り心拍数も心拍出量も減ります。

 逆に例えば体を圧す気圧が低下すれば身体が膨張します。
血管内圧が血管や血管外の組織、細胞、細胞間質の繊維や基質、間質液を押し、血管外の組織、細胞、細胞間質の線維、器質、間質液は皮膚を内側から押します。
皮膚は伸び縮みするので内側から圧力を受ければ外側に拡張しようとしますが、皮膚を外側から押す媒質の圧力が低ければ皮膚が拡張しやすくなるからです。

 これと似たことが起こるのは立位や座位の時の下腿などで起こります。
事務仕事などで座った姿勢を長時間続ければ下半身に体液が溜まります。
容量血管である静脈は血液がうっ滞して拡張し静脈瘤や深部静脈血栓症の原因となります。血管外の細胞や間質も浮腫傾向になります。
下半身の体液の還流が悪くなれば脳や胸腹部の体液維持に重要な臓器を貫流する実質的で有効な体液量が減少します。

 これを予防するためにはなるべく動くことです。
筋肉を鍛えたり代謝をよくしたりする運動ではありません。
体液循環をよくするために動くだけで構いません。
Exerciseではなくmovementです。

 運動するのではなく動くだけで体液は流れやすくなります。
運動と違って動くのはこまめに行うことができます。
有酸素運動や筋肉の超回復ではなく、体をぶらぶらさせたりゆすったりするだけでも良いです。
短時間姿勢を変えたり体を伸ばしたりするだけでも構いません。

動いていればある程度筋肉が逆流防止弁のついている静脈をしごいて血流を浴したり、やはり逆流防止弁のついているリンパ管が間質液を心臓の方向に還流させてくれるでしょう。
できればこういう単に動くことを経口補液を併せてちょこちょこ行うのが大切です。

精神科・心療内科で見られる脱水

 精神科や心療内科には様々な身体愁訴や不定愁訴を持った患者さんがいらっしゃいます。
長時間座り仕事をしている職種の人を例に挙げました。

ただ長時間座り仕事をしていない人でも様々な訴えがあります。
その中によく見ると慢性的な軽い脱水、あるいは前脱水状態をきたしているのではないかと見られる患者さんがいらっしゃいます。
身体愁訴であれば他科で検査をしても異常が見つからない、異常があってもそれにそぐわない過大な訴えが見られるので精神的な問題があるのではなどとのことで受診されます。

 特に2021年から2022年の冬季は血液検査などでヘマトクリット値の増加などをきたした血液が濃縮傾向の患者さんが大勢おられました。
東京オリンピックで夏場も自粛が続いたうえ冬季もオメガ株のために外出自粛が行われて家にこもっていた方が多かったこと、出社せずリモートワークなどで在宅勤務が多かったことも関係あるのではないかと推測されます。

 冬はもともと利尿がかかるなどの理由で体のナトリウム量や水分量が低下しやすい時期であると考えられます。
全身の疲労感や倦怠感、頭痛、食欲の変調、ブレインフォグ(頭もやがかかったように頭が働きにくい、意識レベルが低い、意識がはっきりしない)、お肌の問題、動悸や呼吸の苦しさ、のどの違和感、筋肉のこりや痛み、様々な腹部や消化管の症状、腰痛や関節痛、冷えやほてり・のぼせなど熱感異常、夕方の微熱、風邪をひいたり体調を崩しやすい、その他たくさんの身体の訴えがあります。

 そしてそれらはなかなか治らなかったり、治っても元に戻ったり、治ったと思ったら別の異常や違和感を訴えたりと色々な医療機関を受診するドクターショッピングや補完代替医療、様々な健康関係の分野などに至る方々も多いようです。
こういう方の中には全く理由が分からない方もいらっしゃいますが、何らかの傾向に気付かされる患者さん方がいらっしゃいます。

 いくつか挙げますと睡眠不足、過去に体を鍛えたことが現在も運動不足なこと、過去に大きな病気や怪我をして後遺症の残る人、ダイエットのための小食ややせすぎ、血圧が低い傾向があること、心や体に古傷を持っていること、座り仕事でPCなどに張り付いていることが多い仕事の人、過労、過敏、過集中、過覚醒、過緊張などが抜けない人などです。
そういった患者さんに隠れていることがあるのが慢性の軽度脱水あるいは前脱水状態です。

 疲労感や倦怠感、皮膚の弾力や緊張度の低下、顔色の悪さ、粘膜の乾燥、目や表情の動きの鈍さや生気の減少、発話の遅さや発話量の減少、全身の動作の緩慢さや減少、脱力、意欲低下、立ちくらみや頭痛の訴え、心悸亢進、頭痛やブレインフォグ、のどの渇きや口喝、食欲減少、元気のなさや反応の鈍さ、震えや四肢の違和感など様々な症状が見られたり訴えられたりします。
軽度脱水/前脱水状態は単に症状の修飾因子でしかない場合もありますし、補液してすぐ変化を感じないことも沢山あります。

 ただ患者さんにこまめな補水や補液を勧めると元気になる場合があります。
あるいは脱水や体液異常に関係しそうな生活習慣の改善を勧めると症状が改善する場合もあります。
粘膜の渇きや皮膚の弾力、心拍数をはかったりなどの診察で脱水兆候を見ますが診察できなかったり分かりにくい時もあります。

 人体は子供は70%、大人は60%、老人は50%の水分を含んでいます。
これを多いというか少ないというか分かりませんが、体の組成に多くの水分を含んでいるために体液の欠乏や過剰に、これも見方によりますが比較的強いと考えられます。

 特に若くて健康な間はこれで何も問題は感じていないと思います。
しかし子供や老人、体が弱っている人には体液の欠乏や過剰に比較的弱いと考えられます。
そして若くて健康であっても実は体液量の減少、脱水症までいかなくても脱水の影響を受けている場合があります。

脱水親和型社会への変化

 そもそも普通人は水分や塩分を取ると元気になります。

 日本の状況を振り返ってみると、昭和の初めまでは、貧しく公衆衛生も貧弱で、技術や産業の程度も低く、抗生剤も手術もなく、結核などの感染症や空調もよくなくまさに「人生50年」のような時代でした。
人生50年であれば現代の死因の上位3位を占める悪性腫瘍も脳血管性疾患や心血管性疾患は発症しません。
発症前に別の疾患で死ぬからです。

 血管性疾患は動脈硬化が原因の殆どです。
人生50年のつもりで生きていれば動脈硬化のリスク因子である喫煙、高血圧、高脂血症、糖尿病なども予防する必要がありません。
むしろ喫煙、高血圧、糖質は短い人生の質を高めていたでしょう。

 高血圧症からの動脈硬化の予防などを考えなければ体液が多い方が元気になります。
人間はナトリウムとカリウムのバランスが必要ですが特に欠乏しやすいのはナトリウムです。
体液の組成で大切なのは細胞外液のナトリウム濃度です。
細胞内外のナトリウム濃度とカリウム濃度をある一定値に保つために身体のエネルギー全体で最大の30%が使われています。

 生物が海から陸上に上陸して以降ナトリウムの補充が生存戦略の鍵になりました。
一方カリウムは他の生き物を食べていれば余るほどに補充できるのでむしろ過剰が問題になり体はカリウムを捨てるように出来ています。

 普通体液補給とは原始の海の補充である塩水の補給です。
ブドウ糖も入っていると吸収が良くなるので塩水にグルコースを入れたのが点滴注射で帆益する細胞外液補充駅や経口ではスポーツドリンクになります。

 塩と水は体内ではお互い引きあいます。
具体的には細胞外液のナトリウム濃度を一定に保つように水とナトリウムが調整されます。

 しょっぱいものを食べればのどが渇きますし、水ばかり飲んでいるとしょっぱいものが欲しくなります。
塩や水を摂取するとバランスを取るように足りない方の成分を摂取したくなるとともに、過剰な方を排泄しようと身体が働きます。
この排せつの際に時間のギャップが生じます。

 真水を飲んで血管内外の細胞外液のナトリウム濃度が高まると腎臓がすぐに働いて数時間で尿で水分を排泄されますので体液が身体に留まりません。

 ところが塩分をとるとナトリウムは希少で体がナトリウムを体内にとどめようとするため塩分の腎臓からの排泄には数週間かかります。
ナトリウムは貴重なため尿をつくる際にナトリウムが体内に再吸収されるからです。

 このままでは細胞外液のナトリウム濃度が高まりナトリウムの濃度を一定に維持できなくなるため水を飲んでナトリウム溶液を希釈しようとします。
塩分を取ると喉が渇くのはこのためです。

 細胞外液を一定に保つことを恒常性(ホメオスターシス)と言ったのは生理学の父クロード・ベルナールですが、細胞外液の特に電解質組成は太古に海で生まれた多細胞生命体が陸に上がった時から維持されてきたものであるという説もあります。

 塩分の排泄はすぐにいかず数週間かかるので塩分濃度を一定にするために水を増やすことで濃度を維持します。

 結果体液量が増え血圧が上がります。

 高血圧の患者さんが水ではなく塩分摂取を控える様に言われるのがこのためです。

 動脈硬化やそれによる拘束、出血、塞栓など気にしなければ血圧がある程度高い方が人は元気になります。
昭和50年前後以前生まれの人は昔は塩をなめると元気になるとか冬の寒さに醤油を飲んで耐えるといったことを聞いたことがあるかもしれません。

 海辺や岩塩が出る地域でない大陸の内陸地域では塩分の欠乏が問題になります。
内陸国の武田信玄が周辺の戦国武将に塩の輸入を止められた時に宿敵の上杉謙信が「敵に塩を送る」故事があります。
信州には塩尻峠と言う塩が運送されるぎりぎりのところを地名で表したところもあります。
日本でも内陸では塩が欠乏しやすく安定供給が重大事であったことを表しています。

 そもそも江戸時代には塩抜きという刑罰がありました。
塩が与えられないとやる気や活力がなくなります。

 他方で西洋には水を飲ませ続ける拷問もありました。
これはある程度のところで止めないと死にます。

 体液の過剰、欠乏の違いがありますがどちらも体液量の問題のほかに低ナトリウム血症になります。

これの影響を最初に受けるのは神経細胞、特に脳細胞です。
中枢神経系は回路の設計により意味を成すので細胞脱水や細胞浮腫による神経細胞の形状変化により回路の設計が変わると意味がなくなるためです。

 低ナトリウム血症になってくると細胞浮腫がおこりますしこれは高ナトリウム血症でもそうですが細胞のエネルギー消費、特に神経細胞の情報伝達に支障をきたします。
倦怠感、疲労感、意識レベルの低下やひどくなれば痙攣が起こったりします。

 日本人の寿命が戦後60代、70代と延びていき、癌や脳卒中や心臓麻痺が病気や死因として問題になっていきます。
戦前は夏目漱石が49歳、森鴎外が60歳で抗生物質も回復手術も出来ず40代が更年期として体が衰え、人生50年くらいで死んでいました。
医療が進歩し長生きすると若死にしていた時代には発症すらしていなかった悪性腫瘍や動脈硬化と動脈硬化による疾患が問題になります。

 特に寒い東北地方では塩分摂取量が多く脳出血の多発地帯でした。
日本は海に囲まれている上、運輸の先進国で運送、流通が国内で完全に機能していたため塩が安価で容易に手に入る国です。
また貧しい国全体の傾向ですが三大栄養素である炭水化物、タンパク質、脂質の中でたんぱく質が不足しがちで炭水化物を多く摂取する傾向にあります。

 日本食は栄養学的に優秀な食文化と言われますが、そのためしょっぱいおかずを食べるという食生活が普通でした。
そのため日本は世界でも塩分摂取量が多い国でした。
これが高血圧と脳卒中の原因であるということでここ数十年間、現在でもそうですが減塩が啓発されてきました。

 今の若い人達は塩分取ると元気になるなどと言われた時代があったとは知りません。
それに加えて食事の日本食離れや低炭水化物高蛋白質ブームなどの影響で近年では昔に比べて日本人の食事はかなり塩分量が減っています。

塩分減量は体液量を減少させ血圧を下げたり動脈硬化を予防したりするのには効果的です。
しかし血圧が高い人の方が血圧が低い人よりも元気です。
ですから子供や若い女性では起立性調整障害や低血圧症で学校や生活に支障が出ている場合には塩分を取るように指導されることがあります。

 血糖についても浸透圧を極端に高くしてしまうレベルでなければ高血糖の方が低血糖より元気です。
現在では日本人は昔より低塩分で生活しています。

 数十年かけて塩分摂取の減量を行いました。
太く短く若い時の元気を重視して短い命を生ききるよりは、細く長く動脈硬化や高血圧症による臓器の損傷を避け長生きする道を選ぶ事になりました。
ちなみに炭水化物を異化するために必要な水の量はタンパク質を異化するための水の量より少ないうえに、代謝によって生じる代謝水は炭水化物の方が多いです。

 タンパク質は細胞を構成する構造物質であり、必要があればタンパク質を形成するアミノ酸により糖に変換されたり脂質に変換されることもありますが、必要な糖や脂質の欠乏がなければアミノ酸が糖や資質に変換されることはありません。

 昔は部活の練習中にこまめに水分を取るのはNGでした。
昔の習慣で生水は飲むなと言った水道や井戸水の衛生度への不信感や規律を乱すのを嫌う風潮があったのかもしれません。
これもまた上水道の整備や公衆衛生の進歩により「安全と水はただ」のような昭和的な価値観が生まれました。

 現在は軍隊でもスポーツでも登山でものどが渇いていようがいまいが定期的に補水、補液するのが当たり前です。
科学的なエビデンスが出ていますし、そもそも喉が渇いてからでは既に脱水なので遅いのです。

軽度脱水/前脱水状態の対処法

 まず脱水の知識を持って脱水に対する感度を上げて脱水に注意を払うことを覚えると良いと思います。
何かの体調不良、全身か局所化に関わらず不調や違和感を感じたときは脱水を思い浮かべられる感覚を健康ブームの時代の健康意識として持てるようになると人生の知らない間の損や生産性の低下を防げるかもしれません。

 急性の脱水の予防、対処も大切ですが、慢性、習慣性、繰り返す体調の不良、頭痛、ふらつき、食欲不振、便秘、嘔気、動悸など脱水と関係ないと思っても何かやっている時でもふと手を止めて補液してみるといいかもしれません。
つい何かを休憩せず長時間続けていた時にはふと手を止める時に補液と共に軽い休憩や体を動かすこと、周りや外を見まわすこともするといいと思います。

 姿勢を長時間変えていないとどこかしら負担がかかっているかもしれません。
体液循環がいびつになっていたり特に下半身はうっ滞して足がむくんだり痔を悪くしているかもしれません。

 現代は過労社会、運動不足社会と同時に目の使い過ぎ社会ですので休憩の時には目のピントを変えるのも眼科学会では推奨されています。
体を動かしたりあちこち見回したりするのは落ち着きがないと感じられるかもしれませんが、落ち着きがない時があるのも大切です。

 現代は同時に、過集中社会、過緊張社会、過覚醒社会、過敏社会でもあります。
もともと真面目で几帳面で周りの目を気にしがちな人はそれに拍車がかかっているかもしれませんし、休憩の時とはいえ落ち着きがなかったりおかしな態勢や体動をするのは周りの目が気になってはばかられるかもしれません。
生活習慣を変えることになることになるのでそれに抵抗する保守的な気持ちが働いたり、実際実行してみようと思っても忘れてしまったり、長続きしない場合も多いでしょう。

 ただワークライフバランスを含めて現代の働き方、生き方を代えようとする動きは個人側だけでなく社会の方にも働いています。
コロナの期間行動自粛などで体重増加や代謝異常が増加傾向ですし、政府や企業も働き方改革を進めています。

 IT関連の仕事も増えよりコンピュータの前に座る時間が増えていますので座席を固定しないようにオフィスを変えたり、裁量労働やフレックスタイムが広まったり、外資系企業のような働き方が広まって転職する気持ちの有無にかかわらず、常時転職エージェントに複数登録している人も増えています。
コロナが終わっても在宅ワークが選択できるようになっていくかもしれません。

 就労形態も変わり、副業も増え、雇用を選ばず個人事業を選ぶ人も増えるでしょう。
コロナの有無にかかわらず現在の変化は政府が以前から進めていることです。
社会レベルの変化は自分では変えられませんが、習慣は自分で変えられます。
メンタルにせよ身体にせよ不調感や不良感なく元気や健康感がみなぎって生活できるようにするのが健康増進の目標です。

 「安全と水はただ」というのは昭和中期に「日本人とユダヤ人」という本をきっかけに流行った言葉ですが、そのころはまだコンピュータもスマホもなく仕事も紙ベースで仕事の効率もあまり重視されていなかったという意味で今も昔も仕事は大変ですがいまよりのんびりした時代でした。
今は良くも悪くものんびりしていない社会ですので「水」すなわち体液管理にも注意しないといけない時代です。

 冬場はよく人が亡くなります。
身体的な病気亡くなる人も増えますし自殺も増えます。

 特に年配者の死者が増えますが、中でも体が弱ったお年寄りが冬を越えるのは大変です。
お年寄りの身体が弱るのは加齢だけでなく色々な疾患や身体不調を持っているためですが、体が弱って生命が脅かされる時、直接関係してくるのが体液の状態です。

 補液の管理は経口にせよ注射にせよ大切で、血圧や血液濃縮など循環の変化は直接死因に直結します。
体力がある若い人は冬の厳しさで死に至ることはないですが、やはり覚醒度や活気や元気がなくなりテンションが下がる季節ですので生活の質が下がる方が多くいらっしゃいます。

 脱水というと熱中症のある夏が注目されがちですが、冬や循環や発汗など体液の状態が自律神経の変化とともに変わりやすい季節の変わり目もメンタルにも身体にも不快な変化を感じやすい季節です。
そういった変調や変化に対応するために水分や電解質の管理、あるいは水分摂取の半分以上を占める食事への注意、休憩や休息、意識の高いジム通いやランニングのようなエクセサイズでなくても体をこまめに動かす体動で良いので姿勢を長時間固定させないようにするなど、こまめな健康管理に気を使いましょう。

 長時間持続的集中により何かを生み出すことも人生には必要なことがあります。
そういう時に頭の調子よく働いていると感じているのと反対に実際には下がっている場合もありますが、何かを創造するためには時にパフォーマンスの低下よりも情熱的な集中持続の方が大切な場合もあることは理解できます。
ただ身を削る熱情よりは器用さや要領を重視することも、特に現代のように歳を取っても働かないといけない社会には大切なので、休憩、補液、体動をマメに取ることはいつでも意識して実行していきましょう。

2022/02/21

やさしい生理学

はじめに

我々は生きています。

ですから生きることに関する知識が豊富な方がいいでしょう。
生きるなら健康に生きたいものです。

そのために生の理を知っておくといいでしょう。
ですから生理学を勉強しておくと便利です。

生といっても色々な観点からとらえられるでしょう。
社会科学や人文科学的に考えられる生もあるでしょう。

ここでは生理学の簡単な解説をします。
生理学の中でも中枢神経系は複雑で研究が難航しています。
ここでは“細胞の生理”“ホメオスターシス”の解説をします。

ホメオスターシス

ホメオスターシスは“恒常性”と言う意味です。
生きるためにはある範囲内の環境の中にいなくてはいけません。
生命を維持するのに必要な環境が失われると健康を壊すか死にます。

さて、生きるとは何でしょう。

「生きる」には色々な定義があるかもしれませんが、生理学的にいうとある必要条件があります。
生きるためには細胞が生きていなければいけないということです。

我々は人間ですから人間で限定して考えましょう。
人間は多細胞生物です。
生き物には人間のように多くの細胞でできているのではなく一つの細胞でできている単細胞生物もいます。
いずれにせよ生物とは生きている細胞からなっています。

水生の生物なら空気に接しず生きていくことができるでしょう。
細胞は空気直接に接しては生きていけません。
細胞は細胞外液に浸されている必要があります。

生命は海で誕生したと言われます。
その時は細胞の周囲は海でした。
その後生物は進化して多細胞生物が生まれます。
そして一部が陸上に進出します。

細胞が海を離れることになりました。
しかし細胞が海を離れても細胞は空気に直接接しては生きていけないので細胞の周囲を海のような液体に囲まれている必要があります。

我々多細胞生物の細胞は今でも液体に囲まれています。
皮膚は空気と接しているではないかと言う反論があるかもしれません。
気道や消化管も空気と接しているではないかという反論もあるかもしれません。
多細胞生物は普通、体の内外を上皮細胞と言う細胞のシートで境界されています。

皮膚も上皮細胞で覆われていますが、上皮細胞は直接空気とは接していません。
上皮細胞と空気の間には表皮と言う皮膚の上皮細胞の死骸に覆われています。
空気と直接接しているのは表皮であって上皮細胞ではありません。

上皮細胞の下には基底膜がありその下には真皮というものがあります。
上皮細胞と言うシートは上は細胞でない表皮と言うシートと下は基底膜とその下の真皮に挟まれて存在しています。
表皮の内側まで体液が満ちているため上皮細胞もやはり液体に囲まれています。

消化管や気道はどうでしょう?

人間はトポロジカルにいうとちくわのようなものです。
人間のご先祖さまである線虫のような生き物はまさにちくわのような筒と言っていいでしょう。
その子孫である人間の気道や消化管はちくわの内腔が貫入して複雑化したものと見ることができます。
ですから気道も消化管も内腔は体の外であり空気と接する場合があります。
気道や消化管もやはり上皮細胞のシートで覆われていますが粘液に覆われた粘膜となっており空気と直接接するのは粘液であって上皮細胞ではありません。

粘膜上皮の下はやはり体内なので体液に満ちています。
粘膜上皮細胞もやはり空気に接することなく液体に囲まれているのです。

ですから人間の生きた細胞は液体に囲まれています。

ホメオスターシスを色々な意味に用いる場合があるかもしれません。
その中でも最も大切なのは細胞を囲む細胞外液のホメオスターシス(恒常性)になります。

体細胞と生殖細胞

我々の体は色々なパーツでできています。
それぞれどのような機能を持っているのでしょうか?

大前提として細胞は大きく2つの種類に分かれます。
体細胞と生殖細胞です。
生殖細胞は精子と卵子で体細胞はその他です。
体細胞と生殖細胞は機能が大きく異なります。

ざっくりいうと体細胞はホメオスターシスを保つためにありますが、生殖細胞は子孫を残すためにあります。
生殖細胞は体細胞なしでは生きていけませんが、体細胞は生殖細胞なしでも生きていけます。
生殖細胞はホメオスターシスを保つ機能はありません。
生殖細胞は体細胞に一方的にお世話になっています。

これをどういう風に意味付けするのも自由ですが、一つの解釈として体細胞、あるいは体は生殖細胞のためにあるとも解釈することができます。
あるいは生殖細胞を適切に機能させることができなかった生物は生き残れなかった、とも言えます。

動物機能と植物機能

体細胞と生殖細胞と言う区別と共に、生理学を動物機能と植物機能という分け方で見ると分かりやすくなります。

動物機能とは動くことと感じることでシンプルに言うと筋肉、すなわち筋細胞と神経、すなわち神経細胞に関する生理学です。 植物機能とはそれ以外の生きるための機能です。

筋肉がないと人間は動けません。
どんなことを考えていたとしてもそれを表現できません。
はたから見ると動かないでそこに存在しているだけに見えます。

外界と能動的に関わるには筋肉が必要で、受動的に刺激を感じるためには神経が必要になります。
動くことも生命維持には必要かもしれませんが、動かなくても体は自律的に生命維持活動を行います。
この自律的な生命維持活動を植物機能としましょう。

この生命維持活動はホメオスターシス維持のために行われます。

海と細胞外液とホメオスターシス

生殖細胞が子孫を残したり、筋肉や神経で世界と関わるのがもしかすると生命の目的かもしれませんし、ホメオスターシスはそのための条件に過ぎないのかもしれません。
しかし生殖細胞も筋細胞も神経細胞もホメオスターシスがなければ生きられません。

全ての細胞はホメオスターシスによって生きています。
ホメオスターシスは生きるために必要とこの様に漠然と語られる一方で、より明確にホメオスターシスを示すことができます。

そもそも生命を維持するとはどういうことでしょう。

最低限必要な事は細胞を生かし機能を発揮させることです。

そのためには何が必要でしょう?

細胞のホメオスターシスを維持する必要があります。

細胞のホメオスターシスを維持するには何が必要でしょう。

細胞は細胞外液の中で生きています。
つまり細胞のホメオスターシスを維持するためには細胞外液のホメオスターシスを維持する必要があります。

細胞は海の中で生まれました。
陸上に進出する時もやはり細胞の周りには海が必要でした。
ですから陸上に海を持ち込みました。

多細胞生物の体内を満たしている海が細胞外液です。
細胞は細胞外液のホメオスターシスが維持されないと正常に機能することができません。
細胞外液の恒常性とは細胞外液の物理化学的性質をある範囲に収めることです。

血液、血管、循環

血液は血球と血漿からなります。
血球は赤血球、白血球、血小板で血漿は血管を流れるそれ以外のもの、すなわちいろいろなものが混じった溶液です。
体中を血管が巡っていて一部を除いて血管は閉じており血球が血管外に出ることはありません。

循環は大きく2つに分かれます。
大循環と微小循環です。

大循環は血管内を血液が巡ります。
微小循環は末梢の毛細血管で行われる血漿の水分や成分が血管を出て血管外を出て再度血管内に戻る循環です。
大循環でも微小循環でも血球成分は血管の外に出ません。
微小循環で血管を出た血漿の液性成分が細胞外液のホメオスターシスを維持します。

血管の外に色々な機能を持つ細胞や組織や器官や臓器があります。
血管外の細胞の間にスペースがあれば細胞間質といい、間質は線維と基質からなります。
線維はコラーゲンでタイプの違いはありますが人体で最も多いたんぱく質です。
間質はヒアルロン酸やコンドロイチン硫酸、骨や軟骨や歯であればハイドロキシアパタイトなどの無機的鉱物質の成分が含まれます。

胴体は何のために存在するか

人間の臓器を考えてみましょう。
いわゆる臓器は細胞外液のホメオスターシスを維持するために存在します。

臓器は胴体に収納されています。
胴体は胸やお腹です。
細胞外液のホメオスターシスを維持する必要がなければ臓器は必要ありません。
人間は胴体のない生き物になるわけです。

心臓は血液を流すための臓器です。
肺は血液に酸素を吸収し二酸化炭素を排泄するガス交換のための臓器です。
肝臓は体の化学工場で、結晶内の化学成分を作ったり壊したり変化させたりします。
また胆汁を消化管に分泌します。
これにより結晶内の化学成分の排泄の一部を担います。

腎臓は血漿をろ過して一旦体外に排泄し必要なものを再吸収したり不必要なものを更に分泌することで排泄します。
膀胱はおしっこを貯めるだけです。
消化管は血液の成分になる栄養素を吸収します。
膵臓は血糖調整や消化液の分泌を行います。
脾臓は血球成分を破壊したり、免疫に関わります。

免疫にかかわる器官は多くあります。
ついでに骨髄は血球成分を作ります。
筋肉や脂肪組織、皮膚、細胞間質を臓器と言う人もいます。

これらの臓器の役割は全て血液の生成や調整や排せつにあります。
血液と血管を介して全部の臓器がつながっているのでこれはある意味当たり前です。

細胞外液の恒常性

血管外の細胞の周りを満たしている細胞外液の恒常性とは何でしょうか。
物理的、科学的に細胞外液をある範囲の状態に維持することです。

生体とは生化学的に言えば化学反応より成り立ちます。
化学反応には触媒が必要でたんぱく質が触媒の働きをしますが、至適PHと至適温度があり、温度やPHが大きく変わると生体内のあらゆる化学反応が変化します。

圧力は体積やエンタルピーなどと共に各種自由エネルギーを定義するものです。
自由エネルギーが現象するように物理化学的現象は進行します。

浸透圧が変わると生体内分布、例えば生体内外での体液組成や成分濃度の変化が生じます。
細胞内外の電解質濃度差は生体のエネルギーの30%を占めるほど重要です。
細胞内外では電位差を作る必要もあります。

細胞外液の濃度は太古の海水の組成と似ているともいわれます。
海はあらゆるものが濃縮するので時間が経つとナトリウム濃度が高くなります。
細胞外液のナトリウム濃度は低いので点滴液のナトリウム濃度はなめると薄く感じます。
血をなめても海水程はしょっぱくないわけです。

ちなみに海水や淡水を行き来する種類の魚は細胞外液の濃度維持に多くのエネルギーを生じます。

おわりに

ホメオスターシスと言う言葉を初めて使ったのはクロード・ベルナルドという生理学の父ともいえる偉大な生理学者です。

ベルナルドがどういう意味でホメオスターシスと言う言葉を使ったのかは知りませんが、生理学を学ぶ際には「ホメオスターシスとは細胞外液の恒常性である」という見方を覚えておくと便利です。

細胞外液の恒常性を維持するためにどのような役割を話しているのかと言う観点で体の各部分、各臓器を理解すると生理学が非常に分かりやすくなります。

我々は体液の状態に非常に鈍感です。
おそらく意識すればある程度は敏感になれると思いますがそれでも限界があるでしょう。

のどの渇きや脱水、電解質異常に気が付くのが遅れます。

自分の感覚に頼らず定期的に補液など行うのが1つの解決策になります。
体調がよくないと感じる時には往々にして単なる体液異常である場合がしばしば見られます。

我々は母なる海を体内に宿している、あるいは宿さざるを得ない存在として体液、ひいては体液のもととなる自然や生活習慣に気を使うようにするとよいかもしれません。

2020/12/31

やさしい仏教入門 空と中観の理解へ

空の説明を行う。
まず実を対立概念として絵ブドウの実と皮、空き家と人の住んでいる家、中身があって見た目がダメな男と中身がないが見た目がよい男を例に出して空と実を説明してみようと思います。

はじめに

理解と納得は違うものです。理解していても納得出来ないことがあるし、納得していても理解も出来ないこともあります。同じく説明もそうです。理解していても納得していても説明できないこともあるし、説明できても理解も納得も出来ていないことがあります。

仏教は普通に考えられる宗教と全く異なるところがあります。仏教は分かるものです。といっても仏教にも色々な宗派があります。各宗派の教義には宗派独特のものがあり、その中には分かるのではなく信じるしかないようなものも確かにあります。しかし仏教の、特に日本の仏教の源流である大乗仏教の核心の教義である空や中観の考えは思考で理解するものです。ですから欧米では仏教を宗教ではなく哲学と見なす人が多いようです。

仏教はお釈迦様により開かれ、お釈迦様の死後に根本分裂、枝葉分裂と分派を繰り返し、現在の仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つの系統からなっています。大乗仏教は北伝仏教ともいい、インドから北回りに広がり、現在ではブータン、チベット、日本などにある仏教です。上座部仏教は南伝仏教とも言いスリランカ、ビルマ、タイなどにある仏教です。

大乗仏教の創始者はナーガールジュナ(龍樹)といい、大乗仏教の第一祖で龍樹菩薩とも呼ばれます。大乗仏教が確立したのはナーガールジュナが空論と中観論という理論を作ったからです。この空と中観の概念がお釈迦様が悟ったことというのが大乗仏教の立場です。

大切なのは大乗仏教では無条件の信仰も超自然的なオカルト的精神状態も必要としていません。空と中観を思考によって理解し納得することが仏教の核心です。

何かが分かるとは理解すること、その理解に基づいて納得することです。そのためにはその何かがきちんと説明されていないといけません。お釈迦様の時代の人類の発展度ではお釈迦様が悟った内容は説明が難しかったのだと思います。お釈迦様の教えはお経などの仏教の文書で残されていますがお釈迦様が悟ったことが空や中観であるかどうかもはっきりしません。おそらく当時の知的水準ではお釈迦様の空と中観の説明も曖昧だったのかもしれません。またお釈迦様の教えを残した人々も正しく教えを理解していたかどうかも怪しいと思います。

ナーガールジュナが仏教の核心として再発見した空と中観は例えば中国仏教の天台智顗の三諦論(中、空、戯(仮)の3つの諦(真理)からなる論)という形でまとめられます。仏教の核心を簡略に伝えると言われる般若心経の「色即是空 空即是色」という言葉は有名でしょう。日本仏教で日蓮は(日蓮が空と中を正しく理解していたかは実際は疑問がある)「三諦論と法華経に帰れ」と主張しました。

仏教の中核は「空」と「中観」であって仏教の必要条件と言えます。極論、独断でいえばお釈迦様にせよその後の宗派にせよ、「空」と「中観」以外の要素は文化や伝統として親しみ継承していけば十分でしょう。

過去に説明が困難であった概念も現代の文明や知識の水準では豊富な説明方法があります。

「空」と「中観」を理解する事は仏教を理解することや、単なる知的好奇心を満たす以上の意味があります。空や中観は現代の基礎をなす現代哲学や現代数学の考えそのものだからです。現代哲学の構造主義やポスト構造主義や現代数学の形式主義や公理主義、無定義語の概念は仏教の空と中観と同じものです。仏教、あるいはあらゆる仏教宗派の最小公約数である空と中観の概念を理解すれば現代哲学や現代数学の数学基礎論が理解できます。仏教を理解するということは実用的な事なのです。

日本はせっかく世界で2つしかない大乗仏教国の1つなのですから是非「空」と「中観」を理解して仏教を究めましょう。

第1章 仏教とは何か

仏教とは仏陀になるための教えです。それに関係しないことは二次的で恣意的なことです。殺生をしないとか、出家するとか、頭を丸めるとか、数珠をもってお経をあげるとか、線香を焚くとか、そういったことは仏教の本質には直接関係はありません。仏教の本質は仏陀になることです。仏陀になることを悟るとか解脱するとかいいます。それでは仏陀になるとはどういうことでしょう。結論から言うと空と中観の概念を理解し納得し身につけることです。「解脱」という言葉はいかにも怪しげです。「仏陀」とは覚醒した者という意味でこれも誤解を受けやすい言葉です。オカルト的なにおいがあり実際新興宗教でもそのように使われました。「解脱すると人間を超えた究極の存在になる」「特殊な精神状態に達して特殊な能力を身につける」などです。実際には解脱という言葉は「輪廻転生から解放される、脱する、輪廻転生をしなくて済む存在になる」という意味ですが、実は古代からなされてきたこの解釈からして誤解です。いかにお釈迦様の悟ったことが正しく伝わらなかったかの典型例とも言えます。

仏教の教典は三蔵と言われ経蔵、律蔵、論蔵からなります。ドラゴンボールのもとになった西遊記という小説では中国からインドへ仏教文書を求めに三蔵法師玄奘というお坊様がサルの孫悟空を従えて旅に出ますが三蔵法師とは時の中国皇帝によってつけられた「三蔵を求めに行くもの」という意味です。経とはお釈迦様の言行の記録、律とは教団や教徒の戒律、論蔵とは仏教徒が行ったお釈迦様の教えの解釈です。

そもそもお釈迦様は苦行の後菩提樹の下でお悟りになった時に満足して死んでしまおうとなさいましたが、思い直して自分の悟った内容を世に伝えようとなさいました。

ここから悟った人には生きていようが生きていまいがどうでもよかったことが分かります。つまり悟りの内容は世俗の生き方とは関係がないのです。そもそもお釈迦様は悟っていようがいまいが元々厭世的な性格の方でした。

しかし教えを世の中に広め伝えていこうと考えれば俗世間的な活動が必要です。そもそも教える弟子や教徒を作らなければいけません。また教える内容をまとめて、さらに教え方も考えなければいけません。必然的に世俗的な組織化、教団作りが必要です。維持するためにはコストも労力も必要でしょうし援助者も必要です。組織ですから教えとは直接関係ない教団内のルールを作らなければいけません。経営者にならなければいけないわけです。世の中往々として正論(この場合悟りの内容)だけではすみません。事務、雑務が必要でしかも教えの本質を伝えることよりもそういった実務が仕事の大半を占め煩わされことが往々にありますがお釈迦様も例外ではなかったかもしれません。

そうして35歳で悟ってから80歳までの45年間伝道を続けたわけですが、そこまでしても弟子は悟ったか?

教えを正しく後世に伝えられたか?

また釈迦自身が講義内容を適切にまとめられたか?

などはっきりしません。

お釈迦様の時代の仏教を原始仏教といいます。お釈迦様が入滅したのち、仏典結集や根本分裂、枝葉分裂などの時代を部派仏教と言います。古い時代の記録が残っていると思われるインドではイスラム教徒が、チベットでは中国が文化大革命で破壊したと思われ、スリランカなど南伝仏教系の記録は意図的な破壊はされていないと思いますが古い時代の事なので確たることは分かりません。

その後インドでナーガールジュナが空論と中観論という理論を確立し大乗仏教が確立します。空と中観の概念は釈迦の悟った因縁生起や中道と同じものと思われますが確かなことは分かりません。インドから南にスリランカ、東南アジアなどに広がった南伝仏教である上座部仏教がどのように発展したのか詳細は分かりません。日本に伝わったのはチベットやシルクロードなどから中国へ伝わった北伝の大乗仏教ですので本書では仏教として大乗仏教を指すものとします。

多分、空と中観を理解して悟った人は歴史上、有名、無名を問わず存在していたと思われますが、全く悟った人がいなかった時代もあったかもしれませんし、悟った人が複数出ていた時期があったかもしれません。天台宗の中興の祖であり中国仏教の中興の祖ともいえる天台智顗は三諦論を唱えました。これはナーガールジュナの空論、中観論と同じものですし、龍樹をさらに洗練させたものと言えるかもしれません。本邦の日蓮は三諦論と法華経に帰れといいました。これは日蓮が三諦論を理解していた可能性を示唆します。

空や中観の概念に対して他の仏教の諸概念は空や中観と矛盾しなければ何でも構わないとさえ言ってもいいかもしれません。

では空と中を勉強しましょう。

第2章「空」は難しい、「中観」はかんたん

中観論は実は簡単です。中観というのは現代的に言えば相対主義です。中立に観る、独立に観るというのが現代的な言い方になるでしょう。何を独立にみるかというと空論と並ぶ「戯論」を中論とは独立に観るということです。中間は中道とも中庸とも異なる概念です。お釈迦様の中道はおそらく本来は中観と同じだったと思いますがその様な概念としては残念ながら伝わっていません。中観とは「空論と戯論を独立な理論と考えよ」というものです。空論が成り立って戯論が成り立つ場合も成り立たない場合もあるし、空論が成り立たなくても戯論が成り立つ場合も成り立たない場合もあるという意味です。言い換えると空論が成り立つかどうかと戯論が成り立つかどうかは無関係と言う意味です。中の反対は極端でしょう。空論は肯定するが戯論は否定する、あるいは空論は否定するが戯論は否定するという極論に走るなということです。一方の極、一方の端にだけ立ち他方の極、他方の端を否定することを背反と言います。現代でもそうですが“独立”の概念と“背反”の概念は関係しつつも異なるものですが混同することがあります。これは理系では「独立」と「背反」という概念は数学では必ず習いますが、数学を勉強していない文系の場合には全然知らない、あるいは曖昧にしか理解していない事があるためです。

仏教はあくまで知的な世界であり思考による理解が大切であり、情緒によるなんとなくわかっているつもりは全く必要ありません。

ですから中観論は簡単です。また戯論も簡単です。

問題は空論です。これは理解するのが簡単とは言えませんでした。現代は文明が発達し空を理解するための例えがたくさんあります。お釈迦様の時代には文物が貧弱であり空を説明するために例えられる比喩が貧弱でした。お釈迦様も大変苦労なさったでしょう。

空の理解が難しい理由のもう一つが空を理解しなくても普通に生きていける事です。

生きるため、幸福になるためには空の理解は必要ない人は多いでしょう。

お釈迦様の様な求道者は別として求めたいとも思わないかもしれません。お釈迦様は特殊な性格のお方です。お釈迦様は王位継承者でしたから物質的には豊かで恵まれていました。それでも抽象的な真理を追究しないではいられなかった知的な性格の持ち主でした。生老病死を悲観し苦から逃れるために王子の地位を捨て出家したと伝えられますが、一方で圧倒的に知的な人物であったと思われます。真理を求めずにはいられなかったのでしょう。好奇心は人間の意欲を生じさせるものの1つです。では空について次章で説明します。

第3章 空とは

空は無とは違います。無の反対は有でしょう。空の反対は実と考えてみましょう。ブドウの実で例えると空はブドウの皮、実はブドウの実です。別の例えをしてみましょう。家で例えると空は空き家です。実は住民が済んで家具もあり生活している家です。また人間で例えてみましょう。空とは中身のない薄っぺらい表面主義的で皮相な人間です。稼ぎも少なく解消なしで知能も低く身体能力が低くて運動も出来ない、また倫理感も意志も生きる目的もない、しかし自分の快楽を求め苦痛を逃れるため表面をきれいにし着飾り頭が良いふりをし内容があるように見せかけるかっこつけ男を考えてみましょう。娘が結婚相手としてそんな男を連れてきたらお父さんが起こるのは必須です。またその男の見せかけに騙されて政治家になったり上司に気に入られて出世したりしたら嫉妬したり嫌ったりする人もいるでしょう。「実(じつ)のない男(ひと)」という表現がありました。しかし見た目とイメージがよく人の受けがよく人気も評判もよいです。でも何もできない。

その反対が中身のある男です。昔は「実のある人」という表現がありました。その人が中身はあっても見かけも人からの評価も全く興味がなく気にしない人だったらどうでしょう。科学なり数学なり思想なり芸術なりスポーツなり職人なりで何か超一流の能力があります。しかし見かけをきにせずぼろぼろの恰好で、整容保清がひどく風呂に入らず垢くさい異臭がして不潔で汚い。神も切らず服も着た切り雀です。間違いのない能力がありその道では誰もが認める超一流で他の追随を許しません。でもそれを表面に出すことに興味がなく身の回りの人は変人としてどんなにすごい人かわからず生きているような人がいつの時代にも世にもいます。

空を説明するためにその反対を実として3つの極端な例で空のイメージを例示しました。